昨夜は5時までFBで討論会という意味不明なことをしていたにも関わらず、起床は7時。
まことに良い天気。
朝食、まありと。
フレンチトースト(生姜はちみつソース)、レタスと茹で卵のサラダ、コーヒー。
食事をしながら校正を1本。
今日は家事をまありがやりたいと言うので(よくよく考えれば裏があったわけだが)任せて、散歩。
桜があっというまに5分咲き。いや、今日で8分咲きほどになるかもしれない。
梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや 薬師張氏福子
顔に似ぬほつ句も出でよはつ桜 芭蕉
家にひきこもっているうちに、すっかりこんな時節ではなくなっていた。
日に日に季節は進んでいく。
菜の花は満開。すずらん、芝桜、ラナンキュラス、そしてアネモネ。
書庫から本をいくらかぶら下げて帰る。
咲くを見し散るを見たとし桜かな 稲畑汀子
手入れよき庭が鈴蘭孤独にす 同
午前中、とにかく仕事。
校正を2つ、推敲・脱稿を1つ、2枚の原稿1つ(明日、推敲)。
昼食、まありが外出したのでひとりで。
菜の花とひじきのペンネ。
昨日のひじきの残りを使ってペペロンチーノっぽくした。
午後いっぱい、読書。
Bielle Ambreの封を切ってストレートでちびちび飲みながら。
積んでいたコミックやらラノベやらアリストテレス本やら、ごちゃまぜにして。
竹山博英『プリモ・レーヴィ』を読了。
レーヴィはある固定化された信念、イデオロギー、宗教を持っている方が、アウシュビッツで生きのびやすいことをよく知っていた。「何らかの信仰を持っているものたちは、権力の誘惑によりよく抵抗できた」と彼は書いている。この点については後で詳しく述べるが、レーヴィはあえてその道を選ばなかった。なぜ彼はそうしなかったのか。その理由は81~82ページに引用した、パンヴィッツ博士との会見の場面で述べられている。彼はナチの狂気の本質を、おぞましい反ユダヤ主義の根底にあるものを知りたかったのだ。アウシュヴィッツでの苦役を、たとえば神の試練としてしまったら、その原因と意味を理解するのは不可能になる。それゆえレーヴィはあえて宗教やイデオロギーに逃げることを、「隠れ家を求める」ことをしなかった。先入観のない、曇りない目で、アウシュヴィッツとは何か、その狂信主義の原因はどこにあるのか、考えたかったのだ。これは逃げ場のない、苦しい立場であったと想像できる。しかし彼はそうし続ける強い意志と勇気を持っていた。
311とそれに続くフクシマ以降、「生き延び」はごく身近な問題となった。
とくにフクシマによって。
たえず生き延びる努力をしなくてはいけないということ。
これを心的外傷という臨床用語で矮小化させてはならない。
むしろ、われわれが使う、世界と対峙するための武器であるはずの、言語に関する問題ではないのか。
サバイバーは、爆心地の如き、特異点の如き、そこにはもうなにも見出すことのできない点をめぐって、
その外周部にかろうじて座りこんで、その点から目を離せないでいる、しかしたしかに「いまここにいる」言語的な存在だ。
わたしたちは、いったいなにをどうすればいいのか。
まありが、Yちゃんを連れてくる。
2度目。泊まり、と。
三人で夕食。
かじきと新じゃがのハーブ焼き、鶏もも肉の塩焼き・男薬草塩風味、筍のグリル・山椒を山のようにのせて、
トマトとアスパラと春キャベツの温サラダ、さつまいもの豆乳スープ、菜の花ごはん。
Yちゃんはビールが飲めないので飲みやすい白ワインを出す。
「Chablis Les Forets 2006」、ちょっといいワイン。
ヒーターと七輪を出して、ベランダで夜桜を見ながら食べる。
七輪でクッキーを焼いてみたり。
デザートはリンゴとさつまいもの重ね焼きクランブル。
夜、ノールド・ヤング・ジュネヴァを飲みながら読書。
井上忠『根拠よりの挑戦』をようやく読了。
前半はパルメニデス、後半はアリストテレス。
後半が特に問題で、どこからどこまでがアリストテレスに即した読みなのか、
どこからが井上せんせい独自の読みなのか、いささか不分明。
しかも重厚な文体に酔ってしまうからたちが悪い。
ほかにせんせいの本を読まねばなんともいえぬ。ひじょうに難解。
就寝、1時半予定。
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