Meditations on Afrocentrism (20th Apr. 2012)

/ 2012年4月21日土曜日 /

6時起床。また妙な夢で目が覚める。
曇り、ときどき弱い雨が降る。

まありが朝早くに出かけて行ったので、朝食は抜き。
顔を洗って、もくもくと推敲作業。
ときどき昨日焼いたオールバターショートブレッドをかじりながら。

どうも推敲ってのは、やってもやってもきりがないような気がしてくる。

昼食、ひとりで。
パンプディング(チーズがっつり)、きゅうりのピクルス、コーヒー。
ピクルスは昨日仕込んだもの。もう少し待った方がおいしいかな。

午後もただ黙々と推敲作業。

夕食、まありと。
和牛ホルモンのピッツァ、エビと白いんげん入りの豆乳グラタン、
春菊と生ハムのサラダ、ミニトマトのピクルス。
ビールはハイネケン。

ホルモンは下処理して冷凍していたもの。
ピッツァ生地は既製品、ホルモン+ゴルゴンゾーラ+パルミジャーノ、ホルモンがっつり。
豆乳グラタンのほうはチーズなし、自家製パン粉。
このピクルスも自家製。こちらは漬かり具合は上々。
明日にはワインとも合いそうかな。

23時半、最後の推敲を終える。
脱稿。

お酒を飲みながら、イアン・ジェフリー『写真の読み方』をようやく読了。
おそるべき翻訳のダメさ。
同じ業界にいてこういう訳を読んでしまうと、怒りと悲しみに我を忘れてしまう。

写真はあなたを不死にすることができる。あるいは少なくともあなたを現存させ続けることができる。例えばブラーボは、床屋と客を見て、客が選ぶ向きでその男が貧しく思慮深い性格であることを理解した。ここではある知覚が提示されているのだが、その考えがブラーボに起こった瞬間、あなたもその眼差しを共有することができるだろう。もう一枚のイメージの凸凹のリズムと、流体と影の楽しい配列も同様である。アルバレス=ブラーボが見たとき、あなたにもそのシーンが一瞬にして現れ、またそれを同じように認知するだろう。このように写真が機能するためには抑制がなくてはならない。細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。

「あなた」ってなんだよ(笑
「細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。」ってどういう意味なんだ?(笑
なんで読者をここで厭味ったらしく説教しちゃうの?(笑
創元社が悪いだろ、こんなもん出版したらあかん。

レモンハート・デメララ151をぐびぐび。
むさぼるように本を読んだ。
ステファニー・ダリーの『バビロニア都市民の生活』を読みながら今日を終える。

就寝、2時半予定。

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solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
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