fekete rigó 03

/ 2012年4月24日火曜日 /

わたしはこの家を早く出ようとずっと前から決めていた。だから、片道2時間以上かかる私立の進学校を受験しようと思っていたのだ。
往復だと5時間弱。これほどの時間を通学にかけるくらいなら寮に入りなさい。そんな自然な流れを期待していたし、実際そのとおりになった。
この進路希望を父母に伝えたのは中2のとき。父母は、わたしがこんな意外な進路を選んだ理由を、なんとなく理解していたかもしれないし、あるいはぜんぜん気づかなかったかもしれない。いまだに訊ねていないから、わからない。わたしはただ家を出たかった。

わたしと妹の母は、違う女性。
実母はわたしが物心つかない頃にはもう家にいなかった。祖父母がわたしを育ててくれた。祖母は子どものわたしに実母のことをずいぶん悪く言いきかせながら育てた。どうして母がいなくなったのか、その理由をさんざん刷り込まれたけれど、いまだにそれが真実かどうか知らない。わたしはとくに実母を恨んではいないけれど、会いたいとは思わない。実母の存在はいまだに希薄そのものだ。

祖母はこの悪口以外はとりたてて邪気のない保護者で、むしろ優しい人だった。祖母に育てられているあいだ、困った目にあった記憶はない。
わたしは祖母の作るお煮しめが大好きだった。里芋、にんじん、ごぼう、昆布、厚揚げ、干し椎茸、ときどきかぼちゃが入った。だしは煮干しでとっていた。いまのわたしがときどき作るお煮しめのだしは、祖母にならって煮干しでとるようにしている。でも、あの味にはどうしてもならない。不思議だ。
そして、お麩のお味噌汁。これも煮干しだし。

祖父母の家には池があり、鯉が泳いでいた。
すももの木があり、グミの木もあった。夏みかんや山椒の木、今の時期は紫蘭が池のそばに咲き誇った。田舎にある、ごくのどかな家で、わたしは普通に子どもらしく育った。

父が継母と再婚したのは小学校4年生の時。わたしは祖父母の家を出て、地方都市の小さな貸家に三人で暮らすことになった。
わたしにとって継母は単に同居人だった。べつに継母が意地悪だったわけじゃない。わたしには「母親」というものがよくわからなかっただけ。継母はほんとうに優しかった。お菓子を焼くのが上手で、70年代や80年代のおしゃれなポップスのレコードをたくさん持っていた。土曜日か日曜日のどちらかは、かならずお菓子を焼いてくれる。居間のステレオで音楽を流しながら、ガスオーブンでケーキを焼いたりパイを焼いたりしてくれた。継母の音楽の趣味にはかなわないし、お菓子の味もかなわない。わたしのガスオーブン好きは、きっと継母の影響なんだと思う。その頃は休日が楽しみでしかたなかった。

継母を「お母さん」と呼ぶようになったのは、妹がお腹のなかに宿ったときだったと思う。
このあいだ、妹ができたことを告げられて大喜びする子どもを撮影した動画がネットに転がっていた。見ながらこのときのことを少し思い出してわたしは涙ぐんでしまった。
あの日の父は、スタカンの「Speak Like a Child」をコンポにかけて、お手製のカレーを作ってくれたんだ。

わたしは愛されて生きてきた。だけど、この家を出なくてはと思いこんでいた。
わたしは「実母」という、この家にとってはひどく異質なひとの血を継いでて、どこかはみ出してると思っていた。
裏を返せば思春期特有の夢みがちな心理だ。貴種流離譚の主人公に自身をなぞらえて考えてたのかもしれない。ほんとうに愚かしい。でも笑ったりはできない。あの頃のわたしはそれなりに必死だった。家族を守りたいと真剣に思っていた。本を読み、継母から借りたレコードを聴きながら、いつどうやってこの家を出ようかと考えていた。そして、高校進学はその良い機会であるように思えた。

でも、あの日。中3の冬の日。
世界は前触れなくすっかり変わってしまった。いや、徴しはあったのかもしれない。でも、わたしには知らされていなかった。嵐がひととおり吹きすぎた後、わたしは思った。これは決められていたことだ。最初からわたしの「居場所」はなかった。消されていた。それに気がついていなかっただけ。わたしがバカだっただけ。

あっという間にリアリティを失い、すかすかな手触りと化した世界のなかに取り残されるということ。どこに行こうと、どこに住もうと、一人であろうと、誰かといようと、わたしはずっとひとりであり続ける。誰とも触れ合えず、何も知ることがない。遠いところからひとり指をくわえて物欲しそうにそっちを眺めているのがわたし。わたしの話を誰も理解できない。憐れんだ顔でただ頷いてくれるだけ。わたしの身体があの冬の日、一瞬ですり替わったなんて、誰が信じてくれるだろう。わたしは自分のことを「ロボット」のようにしか感じないんですって、誰が理解できるだろう。


いま、あのときの気持ちを考える。
あの喪失、放擲の感覚は、きっと母に捨てられたときの子の気持ちだ。


それなのに、わたしは高校を合格した。
特例ということで、わたしは保健室で受験することになった。わたしはつい2か月前に母校の保健室で大暴れをしていた。でも、そんなこと思い出しもしなかった。
保健の先生がつきっきりでわたしを監督した。合格祈願の字の入った鉛筆を継母が削ってくれていたけど、鉛筆を握る感触なんてなかった。力の加減がわからずに、いきなり2度芯を折った。ほとんどなにも考えず、どんな問題かもわからず、ただ機械のように答えを出し、出来の悪い産業ロボットのように殴り書いて、そして合格した。
ほんとうにどうでもよかった。合格したからといって嬉しくもなく悲しくもない。ただ次のところへ移動することが決まっただけのこと。

入学式。わたしは欠席した。そのときも保健室にいた。
しかし集合写真だけは撮ることにしていた。父と継母のために。
わたしの隣にいた女の子のひじが、わたしの脇腹にずっとあたっていて、撮影中はそれが気持ち悪くて仕方がなかった。写真を中庭で撮影した後、わたしはすぐにトイレに走り込んで吐いた。その日は朝からなにも食べてなくて、直前に飲んだ紅茶が便器に落ちた。
どこにいたって同じなことはわかっているけど、これほどの拷問を何年も、もしかすると何十年も受け続けなくてはならないことに、わたしはぞっとした。だけど、単にぞっとしただけだった。

単にぞっとしただけだった。

0 コメント:

コメントを投稿

solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
Copyright © 2010 輪郭線が狂った人の倉庫。, All rights reserved
Design by DZignine. Powered by Blogger