起床5時。曇りのち晴れ。
トド撃ち、3枚の原稿をさくっと仕上げる。
朝食、まありと。
昆布だしのおかゆ、きゅうりの古漬けの胡麻和え(昆布+じゃこ)。
午前中、翻訳推敲作業。けっこう直しがあってちょっと鬱。
「在日ファンク」というすごいバンドを発見してアルバムをぽちる。
昼食、まありと。
桜えびのから揚げと水菜の塩炒めそうめん、焼きねぎととろろ昆布のお吸い物、塩でトマト。
まありが食べたいと買ってきた桜えびを使った。
塩炒めそうめん、つまりソーミンチャンプルーみたいな感じ。
午後、校正を1本。即送り。
ほか翻訳推敲作業。
夕食、まありと。
和牛ホルモンのトマト煮込み、揚げた新タマネギと新じゃがの温サラダ、
セロリと春ニンジンのディップ、グリンピースのスープ、バゲット。
ワイン、Bodega Norton Extra Brut。
トマト煮込みはピュレを使った。
ホルモンは昼過ぎから下茹でしたのでけっこう時間がかかった。
わりと多めに下茹でしたので、残りはピザかなにかに使おうかと思う。
サラダの新タマネギはゆっくり時間をかけて揚げ、醤油ベースのドレッシング。
ディップはツナ+マヨネーズ+ヴィネガー。
ワインはアルゼンチン産。1500円の割にはまずまずか。
夜、音楽を聴いたり読書をしたり。
ベートーベンの交響曲第4番をフルトヴェングラー指揮ベルリンフィル(43年)で。
ベートーベンにはつねに、ロジックとしての弁証法を音楽で表現しようという意志が強烈に働いてて、
それはシンフォニーだろうがソナタだろうが、その「形式」への厳密さによく表れている。
ということは、悪く言えば作品が「頭でっかち」になりがちで、
そこを回避するために主題を練りまくっているということだったりすると思う。
ベートーベンについて言えば、身体性のレベルでの表現はいつでも演奏家に委ねられているし、
しかも演奏家が自身の身体性を発揮しやすい主題を、ベートーベンは用意する。
そんなベートーベンの譜は、坂本龍一も言っているとおり、テキストとしては分析しがいがあるはずだ。
それは形式が隅から隅まで浸透しているからであって、そのどこにもベートーベン自身の身体がないからじゃないか。
ドビュッシーとは違う。
しかし、4番だけは曲自身がどことなく熱を帯びているような気がする。
「ヴァーチャルな闘争」の発露って意味での熱ではなく、もうちょっと人間的な弱さを含んだなにか。
形式の弛緩という表現もできるのかもしれないが、ベートーベンにあるまじき「ゆるさ」、のような。
思うにそれこそベートーベン先生自身の身体性ってやつかもしれない。
身体そのものが発するロマンティシズムみたいなもの。
ところが、フルトヴェングラーはそういうベートーベンなど吹き飛ばし、蹂躙する。
フルトヴェングラーとベルリンフィルは、4番にかすかに漂うベートーベンの身体性を覆い尽くす。
なにゆえ? フルトヴェングラーだからってことで理由としては十分なのかもしれないが、これは戦時下での録音だ。
みながみな、死をまじかに感じている時代。
だからこそ、この演奏なのかもしれぬ。
結果的に、まるで「運命」のような4番になってしまった。
フルトヴェングラー、帝王である。
柴田宵曲、『明治の話題』など。
緑雨先生のエピソードが興味深い。ここは露伴と緑雨のかかわり象徴する一節を。
斎藤緑雨の葬式は明治三十七年四月十六日、本郷東片町の大円寺で営まれた。風交りの雨がドシャドシャ降つた日で、「緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲愴なる祭文を読んだ」と内田魯庵が書いてゐる。この祭文は当時何にも発表されなかつたらしいが、近年になつて現物がどこからか出てきた。「惟明治ノ三十七年四月十三日、緑雨斎藤賢君卒す、嗚呼哀哉、天の才人にさいはひせずして世のはやく詞客を失へることや、予の君に於ける生前既に交を許す、死後何ぞ情無からん、哀惜やまず、哀以て終りを送り辞以ておもひをしのぶ」とあつて、後半は「出蘆」のやうな詩の形になつてゐる。「死してもほろびるものは、いのちながしと猶龍の、云ひたる詞おもしろし、文字ほろびず文字世にあり、才ほろびず才長く在り、嗚呼君長くいのちありけり、嗚呼君長くいのちありけり、人間の寿夭また何ぞ論ぜん」といふやうな言葉でも、うす暗い寺の本堂で露伴自ら霊前に手向けるのを聴いたならば、何人も多大の感動を受けたに相違ない。
就寝、3時予定。
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