起床6時半。嵐、雨と風。爆弾低気圧だと。台風のようだ。
春嵐屍は敢て出でゆくも 石田波郷
朝食、まありと。
オートミールの豆乳粥、蓮根と人参の黒胡麻和え。お粥には松の実、胡麻和えは昨夜の残り物。
午前中、まありは家にいるのだとのことなので家事に従事させる。
徐々に雨が落ち着く。
原稿6枚。明日、推敲。
昼食、ひとりで。
リンゴ1個、ヨーグルト、ダージリン。ヨーグルトにはイチゴジャムを添えた。
雨も上がったので散歩に出かける。
桜はだいぶ散ってしまった。ハクレン、シモクレンも。
帰りに厚揚げとお豆腐、豆乳を購入。
夕食、まありと。
鰆の蒸しもの香味ラー油かけ(白髪ねぎいっぱい)、厚揚げの素焼きおろししょうが添え、
かつぶし山盛り乗せたふだんそうのおひたし、ひじきとヤーコンのサラダ(オリーブオイルと塩だけ)、
里芋とネギのお味噌汁、ご飯。
お酒は金凰司牡丹・本醸造。端麗辛口。
日本酒を飲みながら、がっつり読書。
カント(篠田英雄・訳)『啓蒙とは何か 他四篇』再読。学生の頃以来。
とくに「万物の終り」を読み直そうと思ったわけだけれども。
・・・なぜ人間は、そもそも世界の終りなるものを思い設けるのだろうか。また世界の終りを考えるのはよいとしても、(なぜ人類の大部分は)恐怖を持ってこれを迎えようとするのだろうか。前者の理由は次の点にあるように思われる、すなわち――理性が人間に告げるところによると、世界が存続するのは理性的存在者がこの世界で彼等の存在の究極目的を達成する限りにおいてのみ価値を有する。それだのに、この目的が実現できないとなると、人間の創造そのものが、人間にとって意味のないものに思われる。それはあたかも大詰めのない、従ってまた筋の通った趣向のない芝居と一般だ、というものである。また後者は、人類はいま堕落状態にあるという件界に基づいている、しかもその堕落たるや救いようのないほどひどいものであるから、いっそ人類を終滅させるのが、それも恐るべき仕方で終らせるのが、最高の知慧と正義とにかなった(人類の大部分については)唯一の処置だという見解である。そこで末日の前兆(何か大事が起きるだろうという期待にそそられた想像力は、徴しや奇蹟を描き出さずにおくものでもない)も、すべて物怖ろしげなたぐいのものである。そこで一部の人達は、かかる前兆を不正の横行、富める者が奢侈逸楽をほしいままにして貧しい者に加える圧迫、押しなべて誠実と信仰とを喪失した世相、地上に隈なく勃発する残虐な戦争等に、――約言すれば、およそ彼等が前代未聞と思いなすような道徳的堕落や、また有りとある悪徳の急激な増大と、これに伴う夥しい害悪に認めている。するとまたほかの人達は、未曾有の天変地異――例えば地震、暴風雨、洪水、或いは彗星や流星の出現を、かかる前兆と見なしているのである。
凡そ人間の手を経た一切の物の終りは、たとえその場合の目的が善であるにせよ、所詮は愚昧である、それは――彼等が目的を達成するために用いる手段は、却って彼等の目的に反する、ということである。
もちろんフクシマに即した読みを考えていたのだけれど、
今後、さらに4号機が倒壊するなど最悪の事態が訪れたとしても、世界が終ったりしない。
呪われたまま人間は生き続けることになるのだ。
要するに、「生き延び」というのは、呪われたまま、決して呪いを解かないまま生きるということだ。
その方法を考えはじめていなくてはならぬ。
とするなら、終末論を徹底して捨てる必要がある。
「人間の手を経た一切の物の終り」は「所詮は愚昧である」。
ほかに、有岡利幸『桜(1)(2)』読了。これも名著。
就寝、1時半予定。
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