Die Aktualitat der Philosophie (6th Apr. 2012)

/ 2012年4月7日土曜日 /

起床6時。終日晴天。
朝食をちゃちゃっと仕込んでトド撃ち。

朝食、まありと。
銀だらの甘酒味噌漬、干し大根葉と揚げのお味噌汁、昨日の残りのおこわをおにぎりに。

午前中、翻訳仕事を精力的に。

お昼前にちょっと買い物。公園を突っ切る。
ベンチで読書をしようと思っていたのだけれど、いつものベンチに制服姿のJKがふたり座っていた。
よく考えてみると、今日は始業式であったのかもしれない。
それで、学校がはやめに終わったのかもしれない。
とにかくベンチに並んで座って勉強していた。
わりと珍しい光景なので、いつもの悪い癖でゆっくりぶらぶら歩きながら観察していた。

このふたり、なにか話すわけでもなく、淡々と参考書に赤線をひいたりしている。
ひとりはウザったい前髪の子で、もうひとりは栗色の髪をひっつめている。

栗色の髪の女の子はのどが渇いたらしく、学校指定のさえない色のバッグから水筒を取り出した。
その水筒がたいへん鮮やかなイエロー。
よくよくみると、ステンレスにアクリル塗装されているらしいその水筒は、かなり年季が入っている。
底の角のところ、プラスチックの蓋との継ぎ目あたり、塗装がだいぶ剥げていた。
色は鮮やかなんだが、プラスチック製の蓋(兼コップ)の劣化具合といい、若干みすぼらしい。

で、胴のところには、ピカチュウの絵があった。
わたしはなぜかその絵ではっとしてしまった。
サトシとピカチュウが一緒に並んで笑っている。
だいぶ使い込まれたせいで絵がちょっと薄くなっていたけど。

想像するに、彼女はこの水筒を小学生のころから愛用しているのだろう。
もちろん買い替える機会はあったのだろうが、いまでもあえて使っているのだろう。

中身は温かいお茶らしく、真っ黄色いコップに注ぐと湯気がほかほかあがっていた。
自分が一口飲むと、となりの前髪がうざい女の子にも差し出す。
ありがと、と受け取って、彼女もそのお茶を飲んでいた。よい光景だった。

こういう、それだけではほとんど無意味な光景の記述を、バルトは「アンシダン incident」とよんだ。
バルトはアンシダンにロマネスクをみたけれども、まったくそれには同意する。
ほとんど本旨とは関係ないアンシダンが、物語を豊かなものにする。
それは登場人物や、読者のために「鏡」のごとく機能することがある

事件というほどのものではないにせよ、なにかがそこで、ささやかながら動いた/あるいは動かなかった、ということ。
たまたま「そこ」にわたしが立ち会ったということ。
それを記述するということ。
そしてそれが、いつか物語を豊かにするということ。
そういうことを思い知らされるのだ。

昼食、ひとりで。
温豆腐(豆乳仕立て、干し椎茸、エリンギ、えのき)、タレ2種(豆板醤+ごま油、芝麻醤+塩)。
ご飯はなし。玄米茶。

午後も翻訳。
もう終盤。無理せずとも土日で終わるだろう。
アダム・シルヴァーマンの灰釉のお皿が届く。
けっこういい買い物をした(つもり)。

夕食、まありと。
鰯のこんがり焼きとカリフラワーの黒酢風味、おからの炒り煮、干し人参と春キャベツのごま味噌和え、
トマトとクレソンのサラダ、呉汁、ごはん。
サンクトガーレンのエールビール。
サラダは、さっそくシルヴァーマンのお皿に。

土日に食べるベークドチーズケーキを焼きながら、グラニテを食べたり。
ベランダで星見をしたり。月(暦をみたら、明日が満月だ)、スピカ、土星が並んでいた。
白州シェリーカスクの封を開ける。
たいへん素晴らしいお酒。これからどう変わっていくか、けっこう楽しみ。

アドルノ『哲学のアクチュアリティ』、など。

思考の生産性が弁証法的に証示されるのは、もっぱら歴史的で具体的なものにそくしてのみです。さまざまなモデルにおいてこそ、思考と歴史の具体的なものが対話することになるのです。そのような対話の形式をもとめる努力に対してならば、エッセイ主義という非難を私は甘んじて受け入れます。イギリスの経験論者たちも、ライプニッツも、自分たちの哲学的著作を、エッセイ[試論]と呼びました。なぜなら、彼らの思考が突きあたることによって生き生きと開示された現実の力が、彼らをつねに大胆な試みへと駆り立てたからです。カント以降百年をへて、現実の力が失われるとともに、大胆な試みも消え失せました。だからこそ、エッセイは大きな形式から美学の小さな形式へと姿を変えたのです。そして、本来の哲学が自らの大きな問題においては具体的な解釈を使いこなせなくなって久しいのに対して、ともあれ美学における仮象は具体的な解釈が逃げ延びてゆく場となったのです。
大きな哲学におけるあらゆる確実性の崩壊とともに、美学の領域で大胆な試みが開始されるならば、そしてその試みが、美学的なエッセイのもつ、限定され、輪郭の際立った、非象徴的な解釈と結びついているならば、対象が的確に選ばれ、その対象が現実のものであるかぎり、弾劾されるべきものとは私には思えません。といいますのも、たしかに精神は現実の総体を生み出したり、現実の総体を把握したりすることはできませんが、微細な姿で侵入し、微細な一点で、現に存在しているものの尺度を破壊することができるからです。

初期アドルノの本だけれど、カント以降の哲学の限界に対する諦観と、
それとは対照的に、哲学のアクチュアリティをとことん信じている火のような信念とが、
新たな戦場、つまり「美学」を設定する。
ごく初期の時分から、このプログラムを考えていたというのは、やっぱり天才だったんだな、と思う。
もう少し長く生きていてくれたら、ドゥルーズの強度の哲学とも異なった、
弁証法のアクチュアリティを指し示してくれたかもしれない。

というわけで、エドガー・ツィルゼル『科学と社会』を読みながら寝るとしようか。
就寝、3時半予定。

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solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
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