Boy, Girl and the Story of Sagrada (29th Apr. 2012)

/ 2012年4月30日月曜日 /

起床、6時半。晴天のち曇り。
シーツを洗濯、掃除、キッチンを朝から磨く。
連休早々、関越道で大きな高速バス事故のニュース。

朝食、まありと。
鯵のひらき、春キャベツと厚揚げの煮物(ゆずごしょう)、菜の花のぬか漬け、塩むすび。

まありが外出したので、午前中から夕方まで、昼食も摂らずに仕事をする。
30枚ほど書く。
スタートしてはまずまず。

夕方、買い物へ。
子どもたちが公園で遊んでいる。
わさわさと吹きぬけていく風、カラスたち。もう晩春。

顔じゅうを蒲公英にして笑うなり  橋聞石
 
ゆさゆさと春が行くぞよ野辺の草  一茶
 
若草に口ばしぬぐふ烏かな  凡兆
 
行く先を惜しみし春の明日よりは来にしかたにもなりぬべきかな  凡河内躬恒

ストラヴィンスキーの「火の鳥」を聴きながら、肉をオーブンで焼いたり、シーツにアイロンをあてたり。
「火の鳥」はドラティ指揮デトロイトSO、82年録音。
これは1911年全曲版。19年版より好き
大胆な着想、強烈なリズム、踊るような色彩、斬新で緻密な書法。
若いストラヴィンスキーの野心を感じる傑作。

夕食、まありと。
ミートローフ、蕗とかりかりベーコンのオリーブオイル炒め、春キャベツとトマトの蒸し煮(キャベツを半玉)、
野菜のスープ(キャベツの芯、にんじん、たまねぎ)、バゲット。
ビールはサッポロ黒ラベル。

ミートローフは成形するときに上に一筋くぼみを作っておいて
そこにサラダオイルを注いでおく。
そうすると焼いている途中も油分が肉全体に行きわたって均等に焼けるし、
ぱさぱさした仕上がりにならない。
焼きあがったらホイルをかぶせてしばらく落ち着かせると、
切るときに形が崩れないし肉汁も逃げない。

お風呂に入ってワイン。
「Baron de Lestac 2008」。1000円くらいだった気がする。ふつうのワイン。
パリのタパスバーやオードブルバーで飲むようなワイン、と言ったらいいのか。
安ワインを飲みながら、60年代の古いガレージロックの7インチを数枚、消化。

読書、数冊。
為近磨巨登『書道用紙とにじみ』という本に蒙を啓かれる。

十数年前のことになりますが、墨の研究のため実験をしているとき、あることに気がつきました。
それは墨汁の一滴を画仙紙に落としたとき、濃墨の場合は墨だけが広がりますが、淡墨だけにすると墨のにじみの外側に水のにじみができたことです。これに興味を持ちその理由が知りたくていろいろ文献を調べました。
紙の研究者は「墨のにじみは、繊維と繊維の間の細孔(空隙)が毛細管の役目をし、墨汁が毛細管現象によって、連続した空隙をどの方向にも浸透する」と書いています。にじみは墨汁が繊維と繊維の間の空隙を通ることによってできることはわかりますが、水だけがにじむ現象については書かれていません。
墨の研究者は「墨汁が滲むのは、炭の粒子が微小だからである」とか「墨の粒子が小さいほど滲みやすい墨になり、墨の粒子が大きくなるほど線の輪郭が明瞭に現れる」と書いていますが、これも水にじみのことについては触れられていません。結局、文献では筆者が望んだような答は見つかりませんでした。
そこでまず思いついたことは、墨汁が毛細管を通るとき、墨粒子が重いため水だけが先に進むのではないかということです。ところがコロイドの本では、墨汁はコロイド(後述)であり特別なことがないかぎり墨と水に分離することはないと書いています。水にじみ現象の理由はわからないままでしたが、このことはその後、墨や硯のことを勉強しているときも頭から離れることはありませんでした。
そんなとき、ふと一つの考えが浮かんできました。それは墨汁は繊維間隙を通るが、一部の水は繊維の中を通っているのではないかということです。これなら水と墨汁が分かれて、水にじみがでいることが不自然でなくなるからです。

この仮説を検証するために、88歳の筆者はこつこつと研究していく。
そのさまが実に琴線に触れる。
知の歓びはどんなに歳をとっても関係ない。良書。

タブッキ『時は老いをいそぐ』をちびちび読む。
ハイランドパーク18年をロックで。

就寝、3時予定。

You know, is it all right not to hold it in anymore? (28th Apr. 2012)

/ 2012年4月29日日曜日 /

起床、7時。今日も終日晴天。

朝食、まありと。
トースト、サニーレタスとセリのサラダ、
ジャム2種(コリアンダー風味のリンゴジャム、グレープフルーツとバナナのジャム)、コーヒー。

昨日の原稿4枚、推敲&脱稿。
資料をまとめファイルする作業をこつこつと。

昼食、ひとりで。
白粥、菜の花の醤油煮、筍の豆鼓炒め。

菜の花はオリーブオイルで炒め蒸しして、お醤油をまわしかけて、軽く水分を切ったら出来上がり。
ざるなどでお醤油を切るのがポイント。
お醤油ちょっと甘いほうがいい。今日はジョーキュウ醤油を使った。
ついでに、昨日砂肝を大量に買ってきていたので、処理して、醤油漬けにした。

午後は書庫内で作業。
メモや付箋にまみれながらの作業。
これでほぼ終わり。

少し散歩をする。
今日はすでにGWに突入していて、あちこちで子どもたちが遊んでいる。

虻澄みてつゝと移りて又澄みぬ  虚子
  
里の子や髪に結いなす春の草  太祗

夕食、まありと。
豚と高菜のおこわ、イカとアスパラガスのXO醤炒め、豚しゃぶと水菜のサラダ、
もやしときくらげの味覇スープ、かぶと人参のぬか漬け。
ビールはヱビス。

田村合名「鷲尾」、黄麹でかめ壷仕込みの芋焼酎を飲む。封を今日切った。
ストレートで。あっさり。甘さもくどくなくてすいすい飲める。香りもいい。
水で割ると香りが立ってくるけど、いまのところはストレートで飲むか。
日が経つと加水したほうがおいしくなるような気もする。

おつまみ。
砂肝の醤油漬け、パリパリ鶏皮の五香粉風味、かぶのぬか漬け。

砂肝はお昼に仕込んだもの。けっこうめんどくさい。
砂肝を長ネギとしょうがの薄切りといっしょに下茹で。
そのあと粗熱をとって薄切り。
水気を拭いて、水、醤油、きび砂糖、紹興酒、八角、花椒、シナモンスティック、鷹の爪、
薄切りしょうが、ねぎのみじん切りで作った漬けだれに半日ばかり漬ける。

鶏皮は昨日の鶏油を作ったときにできたパリパリの皮を、
トースターで軽くあぶって五香粉と塩を振ったもの。これは簡単。

ほろ酔いで、音楽を聴いたり読書をしたり。
真田信治、友定賢治『県別・罵詈雑言辞典』。
全国の罵詈雑言を集めたもの。
県ごとの記述の冒頭が、いきなり罵倒ライヴというおもしろい体裁の本。

ごじゃらごじゃら語りがって、ただぎづげっど (宮城)
ばがしゃべりしてれば、うしろどっこ わったりやってるどー (秋田)
ぐじらぐじらずってっと、頭くらすけっつぉ (福島)
ぐずらぐずら言ってだら、頭三角にすっと (茨城)
ぐだぐだ言ーてっと、くらすけるろ (新潟)
ごじゃごじゃ言ーとると、いなか頭 かち殴るぞ (富山)
ぐだぐだ言ーと、こつをくれるぞ (山梨)
なま 言ーとったら いわすど (京都)
どうないやこないや言うよったら、どたまかちわってもたんどー (兵庫)
いらんこと言ーちゃーったら いてこますどー (和歌山)
かばちゅーたりょーりゃー ほんましばくで。わりゃー (広島)
どぐんだら 言ーよったら、どくろかちわるぞ (香川)
がたがたこきよったら、ほてくりこかさるーぞー (福岡)
なんのかんの言いよっぎん、くらすっぞー (長崎)
どたばた言ーよったら ちちまわすぞ (大分)
ぐっしゃぐっしゃ言っちょったら、ぶんたうったくっどねー (鹿児島)
めーやん くぃーやんすらー、たたっくるさーりんどー (沖縄)

これも当然収載されている。

どたまかち割って 脳みそかきまわしたろか (大阪)
ケツの穴から 手ぇ突っ込んで 奥歯がたがた言わしたろか (大阪)

世の中いろいろじゃよ。
就寝、2時予定。

Vermeer et Spinoza (27th Apr. 2012)

/ 2012年4月28日土曜日 /

起床、6時。終日晴天。
朝から掃除、洗濯。
ベランダの窓ガラスを拭く。

朝食、まありと。
蕎麦の実入りの雑炊(昨夜の残りごはんで)、もやしと筍の炒め物、筍のぬか漬け。

食事を終え、資料をそろえにすぐに書庫へ。
最初はスキャンしていたんだけど、めんどくさくなって、結局けっこうな量の本を運び出すことに。
水だしコーヒーを作るウォータードリッパーも書庫から回収。
天気が良くて、少し買い物(アイスコーヒー用の豆)をしたり、散歩をしたり。
藤の花をみかける。7分咲き。金雀枝、みやこわすれ。

藤棚の風は紫にて候  山下しげ人

金雀枝の咲きあふれ色あふれけり  藤松遊子

雑草園都忘れは淡き色  高濱年尾

帰宅して昼食、ひとりで。
蒸しジャガイモのアンチョビ乗せ、クレソンと生ハムのサラダ、コーヒー。
水だしコーヒーをさっそく作る。

午後、2枚。脱稿。その後、気力が続かず。
クッキーを焼いたり、料理をしたり。

夕食、まありと。
海老とクレソンと春キャベツの水餃子、蓮根のマスタード和え、
ネギと玉子の鶏油炒め、きくらげともやしの中華スープ、ごはん。
ビールは、まありが「飲んだことない」と言って買ってきた333。

水餃子は皮も自作。
たれはオリーブ油+わさび+米酢+塩、黒酢+にんにく+醤油の2種。
蓮根は酢を入れて下茹ですると固くならない。鶏油も自作。

ウクライナで連続テロ。
ロンドンで立てこもりのニュース。

ボルドーのデザートワイン「Chateau Peybrun 1998」。
ぎんぎんに冷やして飲む。おいしい。
蜂蜜、レモンの香り、ごくかすかに苦み。
これはもっと寝かせるとさらにおいしくなるような気がする。あと数年?
肴は昼間に作ったドライいちじくとくるみのクッキー。
このワインに合わせるのであれば、もうちょっと甘さをひかえたほうがよかった。

読書。ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』を読了。
スピノザはなにも決定論者だったわけではない。むしろ、自己以外の外部にもたれかかろうとする人間に、
自由の厳しさを教えようとしたのだろうと思う。
厳しいけれども、そのさきにはきちんと見返りがあるのだと。

パラダイスもなければ、後ろに隠れた世界も超越的な世界もないのだ! ここから、この内部から、われわれは一種の永遠性の経験を行なうのであり、そのときわれわれを活気づける”コナトゥス”は精神ともっとも正しくかつもっとも適合的な関係のなかに置かれて、真の観念がおのずから姿を現わすのである。しかし、めいめいがおのれの存在に即して存続し続けようとする努力を倍加するこの自己ヴィジョンは、全員に等しい仕方で与えられているわけではない。ここでも、異なった認識の段階があり、異なった種類の世界の読解の仕方がある。正確を期して言うなら、それは三種類ある。経験による認識、理性による認識、そして直観による認識の三つである。そして、この三つ目の認識が、観念を理性によって演繹することも、経験によって帰納することもなしに、観念をそれ自体として捉えることができるのだ、とスピノザは言う。
自己に署名し自らを正当化する真の認識は、演繹的観点から見ても、帰納的観点から見ても、ほとんど同じことである。しかし、直感だけがおのずから輝くものの明証性をキャッチすることができるのだ。これは直観に高度なかたちを与える絵画の歴史であり、ひとえにまなざしの効用にかかわる。実際、直感は自然が自らに即して広がりを持つのと同じような仕方で自然の光を取り入れる。それは自然的で自然を生み出す思考の明晰性のなかで、自然が自然身体によって見られた姿である。それはスピノザが精神が〈神あるいは自然〉に向かって立ち上がっていくときに身体が経験するものとみなした至福のヴィジョンにほかならない。しかし精神は、本当に自然の眺望と融合すること――たとえば『デルフト眺望』のように――ができるのだろうか? 精神は活動的であると同時に観想的であることができるのだろうか? 精神はつねに外部の支柱、根拠のない幻想としか言いようのない外在性や超越性を必要とする帰納法や演繹法から身を解き放つことができるだろうか?

深夜、4枚。
明日、推敲して脱稿する予定。
世間では連休がはじまっているけど、わたしには関係ない。

就寝、3時半予定。

PRESENCE (26th Apr. 2012)

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実は先日は朝5時ころ眠り、6時半に起きた。
しかも恐ろしく不快な夢で。
にもかかわらず、終日晴れ。

朝食、まありと。
卵焼き、小松菜のお浸し、小松菜のお味噌汁、きゅうりのぬか漬け、ご飯。

午前中、10枚の仕事。
ひさしぶりに半分以上書いたものを破棄して全面的に書きなおすなんてことをする。
こういうことはあまりないんだけど、やはり疲れてるのかもしれない。
こんなふうに書き上げた成果物は、しばらく寝かせたうえでもういちど推敲すべき。

昼食、ひとりで。
豚肩肉とルッコラのカサレッチ、セリとサニーレタスのサラダ、ミニトマトのピクルス。
カサレッチには空豆と筍も入れた春っぽい感じ。クリームソースで。
がっつり。

午前中の仕事を終わらせる。
その後は書庫で資料を探したり、スキャンしたり。
ついでに書斎にたまってきた本やレコードやヲタグッズを書庫へ持ち込む。
どんどん増えていくのが正直怖いんですが。

夕食、まありと。
テンジャンチゲ、春野菜のナムル(アスパラ、さやいんげん、筍、空豆、菜の花)、
ししとうとみょうがの味噌コチジャン漬け、蕎麦の実入りごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

テンジャンチゲの具は豚肉、じゃがいも、あさり、えごま葉、ズッキーニ、お豆腐。
テンジャンは小娘に買って来てもらったのだが、偶然、材料が大豆オンリーのジャンだった。
最近は混ぜ物がしてあるものが多いから、むしろ珍しいかもしれない。
ちなみにテンジャンは、米や麦が入っていないので甘くない。かわりにコクがある。
日本のお味噌汁は煮たてちゃダメ。「煮えばな」の見極めがお味噌汁の難しさ。
だけどテンジャンはぐらぐら煮たててもいい。味が変わらないし、むしろコクが増す。

ししとうとみょうがのコチジャン漬けは、昼食の時に仕込んでおいた。
コチジャンだけでなくテンジャンも使ってみたから、正確に書けば「サムジャン漬け」になるのかな?
テンジャン+コチュジャン+はちみつ+白炒り胡麻+ごま油。
みょうがには切り込みを入れて味が染みるようにしておく。
2、3時間、できれば半日くらい漬け込むとおいしい。

読書をしようと思ったのだが、昨夜に引き続いて他者に関するあれこれをワインを飲みながら。
オイルサーディン缶に山椒の実の佃煮を入れてぐつぐつ。
「ルミエール・イストワール2010」という甲州ワイン。はじめて飲む。
デラウェアだからもっと甘いのかと思っていたら、わりと辛口だった。

ボロディン「交響詩《中央アジアの草原にて》」を聴く。
ロストロポーヴィチ&パリ・オペラ座管弦楽団の77年もの。
思い切った楽しい演奏で、しかしピタッとはまる。
舞台役者のみえを切る様子っぽい良演。

本垢顔本で討議の様式についての討議。
いくらかトドを撃って寝る。
この日記も書かないで、しかも本を一切読まないという堕落した日であった。
ここしばらく、いろいろだらけているな、と思う。

就寝、3時。

This changes everything. (25th Apr. 2012)

/ 2012年4月26日木曜日 /


起床6時。午後からひどい雨。

サラ・ヴァン・ゲルダーの『99%の反乱』を再読する。
オキュパイNYはその運動の成果として「占拠運動の10の原則」を掲げることができた。

1)危機の元凶を名指しする:99%の抱える問題はウォール街の拝金主義、腐敗した銀行、そして企業の政治システム乗っ取りに原因がある。

2)求める世界像をはっきり示す:わたしたちは、最も富める1%のためだけでなく、みんなのために機能する世界を創ることができるはずだ。

3)公の討議の新しい基準を作る:今や、政策や提言を主張する者は、そのアイデアが99%のためのものであることを実証する必要がある。1%のためだけではもはや十分ではない。

4)新しい物語を提示する:解決法はもはや政府を困らせることではなく、社会や政府を企業支配から解き放つことだ。

5)大きなテントを作る:わたしたち99%は、あらゆる年齢、人種、職業、そして政治的信条の人々から成り、互いに尊びながら協力しあうことを学んでいる。

6)変化をもたらす機会をみんなに与える:誰かが仕切っているわけではない。誰でも参加でき、何かを実践させることができる。

7)運動であって、要求リストではない:一時しのぎや一つの問題の改善ではなく、変革による構造改革を求めることが、運動維持の活力源となる。

8)地域と世界を結びつける:人々は地域特有の課題、策略、目標を持っている。しかし同時にわたしたちは連帯、コミュニケーション、そして展望をグローバルなレベルでも共有している。

9)深淵な民主主義と共同体の倫理と実践を提供する:粘り強い意志決定は、すべての声に耳を傾けた時に、見識と公の公約に変わる。占拠地は、誰もが怒り、希望、そして夢を、相互に支え合う雰囲気のなかで論じることのできるコミュニティーである。

10)わたしたちは力を取り戻した:政治家や指導者が変化をもたらすことを期待するかわりに、今やわたしたちは自分たちに力があることがわかる。わたしたちの生活を抑圧する力の犠牲者になるかわりに、世界を作り変える主権を主張するのだ。

隠岐せんせいがおっしゃるとおり、原則の提示があってはじめて、討議を始めることができる。
運動の持続と社会の変革は、討議のための柔軟な方法論を最初に掲げることができるかにかかっている。
オキュパイ運動は、その点においては、ごく最初に奇跡的な進展をみた社会運動だと思う。

朝食、まありと。
大根餅、ほうれん草のチャンプルー、きゅうりのぬか漬け。
大根餅は上新粉と大根、桜えびで。たれはポン酢とごま油、炒り胡麻。

電車で長崎へ。
車中と長崎駅のスタバで4枚書き上げ、速攻で脱稿。

昼食、ひとりで。
長崎駅からぽつぽつ雨が降るなか、「かたおか」へ向かう。
皿うどん。おいしい。
ちょっと味が濃いので、お酢をかけて食べると、なお美味しくなる

Hせんせいの研究室へ。
昨日のOせんせいと同じく、いつも思うのはこのひとたちはみな総じて「物語」を否定しないということだ。
学というのは、ディシプリンを支える(あるいは「ディシプリン」(訓練・教練・統制)が支える)客観性と
研究者それぞれ固有の物語が衝突する場、その衝突のなかでしか衡平は生まれないのではないか。
イデオロギーをむやみに恐れて、透明にしてはいけない。
そう考える。

帰りの車中でICレコーダを聞きながらレジュメ作成。
帰宅は21時。

今日はまありが食事を作ってくれていた。
肉じゃが、レタスサラダ、キャベツと油揚げのお味噌汁、きゅうりのぬか漬け。
ビールは、サッポロ黒生。

お風呂に入って、twitterしながら深夜レジュメ作成の続き。
もうひとつ原稿を書くつもりだったけど、明日にまわすことにした。
疲れた。

就寝、1時半予定。

I miss my Watson. (24th Apr. 2012)

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起床5時半。晴れのち曇り。
コーヒーを飲んで、すぐにトド撃ち。

朝食、まありと。
オイルサーディンのオープンサンド、筍のピクルス、コーヒー 。
筍のピクルスは自家製でカレー味。

サンドイッチを作るついでにもずくとミニトマトのピクルスを仕込む。
和風に、昆布と米酢など。

「アンシダン」の整理を午前中に終えてほっとする。
これで、スタートライン。
まず先行して書いていこうと決めていた部分のラフスケッチをはじめる。

リヴィングにまありが本を置きっぱなしにして学校へ行っていた。
わたしが貸した本だ杉井光せんせいの『神様のメモ帳』。

事務所の玄関の前で、アリスは振り向いて、僕のフロックコートの胸に手を押しつけた。
「ワトスン」
「・・・え? あ、僕?」
「ジョン・H・ワトスンは、医者で、作家だった。知っているね」
「知ってるけど」
「一方、シャーロック・ホームズは探偵だった。探偵以外の何者でもなかった」
いったいなんの話だろう。こんな場所でする話だろうか。
「ホームズはその生涯で二度だけ、自分で小説を書こうと試みたことがある。そうして彼はこう嘆いている。"I miss my Watson."――ワトスンがいないとつらい、彼が質問したり、驚いたりしてくれないと、うまく自分の考えを語ることができない、とね」
僕は息をついた。アリスは僕の胸から手を離し、ドアに背中をもたれた。
「探偵というのは、世界に対して、読者でしかいられないものなんだ。この世界の複雑さを受け入れ、その通りに読み取り、より分け、咀嚼し、帰納するしかない。でも」
アリスは目を上げる。
「作家は、ちがう。ぼくはある作家の執筆方法に関するコラムを読んだことがある。彼はこう書いていた。ラストシーンから、時間の流れとは逆に小説を書くことだってできる――むしろそれが物語の作り方としては正しい、と。わかるかい、作家は世界を演繹できるんだ」

昼食、ひとりで。
トーストとホットミルク。
トーストはコリアンダー風味の自家製リンゴジャムで。

すぐにOせんせいの研究室へ出かける。
途中、いつもは通らない道を通り抜けてバス停に向かっていると、道端にあやめが咲いているのが見えた。
雑草やらなにやら、よく咲いている。
山頭火三首。

何が何やらみんな咲いている

あるけばきんぽうげすわればきんぼうげ

今日の道のたんぽぽ咲いた

お土産に道明寺桜餅と草餅。

おらが世やそこらの草も餅になる  一茶

草餅の黄粉落せし胸のへん  虚子

薄き葉の中に朱味や桜餅  子規

目の前の浮世がたのし桜餅  岩木躑躅

90分ほどの予定が2時間以上話し込む。

夕食、まありと。
焼き鯖のトマトともずくのピクルスかけ、焼きししとうと白ネギのオイル煮(山椒入り)、
春菊と大根のサラダ(黒酢、太白胡麻油、塩)、春菊のスープ、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはハートランド。

鯖は七輪で焼いた。香ばしくなって美味しい。ソースは五山中
せっかくなのでお湯をやかんで沸かして焼酎。
愛媛の「宮の舞」という栗焼酎をお湯割りで。甘くて飲みやすい。
肴は干し餅、焼き筍、大根のぬか漬け。
ぬか漬けがどんどん美味しくなるのが嬉しい。

お酒を飲みながらレモンタルトを焼く。
いい加減、レモンを使わないともったいないことになるだろうから。

深夜、Oせんせいとのやりとりをレジュメに。
顔本で討議。白熱。

就寝、3時半。

fekete rigó 03

/ 2012年4月24日火曜日 /

わたしはこの家を早く出ようとずっと前から決めていた。だから、片道2時間以上かかる私立の進学校を受験しようと思っていたのだ。
往復だと5時間弱。これほどの時間を通学にかけるくらいなら寮に入りなさい。そんな自然な流れを期待していたし、実際そのとおりになった。
この進路希望を父母に伝えたのは中2のとき。父母は、わたしがこんな意外な進路を選んだ理由を、なんとなく理解していたかもしれないし、あるいはぜんぜん気づかなかったかもしれない。いまだに訊ねていないから、わからない。わたしはただ家を出たかった。

わたしと妹の母は、違う女性。
実母はわたしが物心つかない頃にはもう家にいなかった。祖父母がわたしを育ててくれた。祖母は子どものわたしに実母のことをずいぶん悪く言いきかせながら育てた。どうして母がいなくなったのか、その理由をさんざん刷り込まれたけれど、いまだにそれが真実かどうか知らない。わたしはとくに実母を恨んではいないけれど、会いたいとは思わない。実母の存在はいまだに希薄そのものだ。

祖母はこの悪口以外はとりたてて邪気のない保護者で、むしろ優しい人だった。祖母に育てられているあいだ、困った目にあった記憶はない。
わたしは祖母の作るお煮しめが大好きだった。里芋、にんじん、ごぼう、昆布、厚揚げ、干し椎茸、ときどきかぼちゃが入った。だしは煮干しでとっていた。いまのわたしがときどき作るお煮しめのだしは、祖母にならって煮干しでとるようにしている。でも、あの味にはどうしてもならない。不思議だ。
そして、お麩のお味噌汁。これも煮干しだし。

祖父母の家には池があり、鯉が泳いでいた。
すももの木があり、グミの木もあった。夏みかんや山椒の木、今の時期は紫蘭が池のそばに咲き誇った。田舎にある、ごくのどかな家で、わたしは普通に子どもらしく育った。

父が継母と再婚したのは小学校4年生の時。わたしは祖父母の家を出て、地方都市の小さな貸家に三人で暮らすことになった。
わたしにとって継母は単に同居人だった。べつに継母が意地悪だったわけじゃない。わたしには「母親」というものがよくわからなかっただけ。継母はほんとうに優しかった。お菓子を焼くのが上手で、70年代や80年代のおしゃれなポップスのレコードをたくさん持っていた。土曜日か日曜日のどちらかは、かならずお菓子を焼いてくれる。居間のステレオで音楽を流しながら、ガスオーブンでケーキを焼いたりパイを焼いたりしてくれた。継母の音楽の趣味にはかなわないし、お菓子の味もかなわない。わたしのガスオーブン好きは、きっと継母の影響なんだと思う。その頃は休日が楽しみでしかたなかった。

継母を「お母さん」と呼ぶようになったのは、妹がお腹のなかに宿ったときだったと思う。
このあいだ、妹ができたことを告げられて大喜びする子どもを撮影した動画がネットに転がっていた。見ながらこのときのことを少し思い出してわたしは涙ぐんでしまった。
あの日の父は、スタカンの「Speak Like a Child」をコンポにかけて、お手製のカレーを作ってくれたんだ。

わたしは愛されて生きてきた。だけど、この家を出なくてはと思いこんでいた。
わたしは「実母」という、この家にとってはひどく異質なひとの血を継いでて、どこかはみ出してると思っていた。
裏を返せば思春期特有の夢みがちな心理だ。貴種流離譚の主人公に自身をなぞらえて考えてたのかもしれない。ほんとうに愚かしい。でも笑ったりはできない。あの頃のわたしはそれなりに必死だった。家族を守りたいと真剣に思っていた。本を読み、継母から借りたレコードを聴きながら、いつどうやってこの家を出ようかと考えていた。そして、高校進学はその良い機会であるように思えた。

でも、あの日。中3の冬の日。
世界は前触れなくすっかり変わってしまった。いや、徴しはあったのかもしれない。でも、わたしには知らされていなかった。嵐がひととおり吹きすぎた後、わたしは思った。これは決められていたことだ。最初からわたしの「居場所」はなかった。消されていた。それに気がついていなかっただけ。わたしがバカだっただけ。

あっという間にリアリティを失い、すかすかな手触りと化した世界のなかに取り残されるということ。どこに行こうと、どこに住もうと、一人であろうと、誰かといようと、わたしはずっとひとりであり続ける。誰とも触れ合えず、何も知ることがない。遠いところからひとり指をくわえて物欲しそうにそっちを眺めているのがわたし。わたしの話を誰も理解できない。憐れんだ顔でただ頷いてくれるだけ。わたしの身体があの冬の日、一瞬ですり替わったなんて、誰が信じてくれるだろう。わたしは自分のことを「ロボット」のようにしか感じないんですって、誰が理解できるだろう。


いま、あのときの気持ちを考える。
あの喪失、放擲の感覚は、きっと母に捨てられたときの子の気持ちだ。


それなのに、わたしは高校を合格した。
特例ということで、わたしは保健室で受験することになった。わたしはつい2か月前に母校の保健室で大暴れをしていた。でも、そんなこと思い出しもしなかった。
保健の先生がつきっきりでわたしを監督した。合格祈願の字の入った鉛筆を継母が削ってくれていたけど、鉛筆を握る感触なんてなかった。力の加減がわからずに、いきなり2度芯を折った。ほとんどなにも考えず、どんな問題かもわからず、ただ機械のように答えを出し、出来の悪い産業ロボットのように殴り書いて、そして合格した。
ほんとうにどうでもよかった。合格したからといって嬉しくもなく悲しくもない。ただ次のところへ移動することが決まっただけのこと。

入学式。わたしは欠席した。そのときも保健室にいた。
しかし集合写真だけは撮ることにしていた。父と継母のために。
わたしの隣にいた女の子のひじが、わたしの脇腹にずっとあたっていて、撮影中はそれが気持ち悪くて仕方がなかった。写真を中庭で撮影した後、わたしはすぐにトイレに走り込んで吐いた。その日は朝からなにも食べてなくて、直前に飲んだ紅茶が便器に落ちた。
どこにいたって同じなことはわかっているけど、これほどの拷問を何年も、もしかすると何十年も受け続けなくてはならないことに、わたしはぞっとした。だけど、単にぞっとしただけだった。

単にぞっとしただけだった。

God Knows (23rd Apr. 2012)

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起床5時。晴れのち曇り。

起きてすぐに仕事2枚、脱稿。
ちょいちょい散歩。小手鞠が咲いてる。
パン屋さんでホテル食パンを半斤だけ買う。

小でまりや裏戸より訪ふことに馴れ  高濱年尾

朝食、まありと。
カニとアボカドのサンドイッチ、きゅうりのピクルスとチーズのホットサンド、アッサム。

「アンシダン」ファイルを(ほぼ)無作為に抜き出す作業。
えんえん、過去に書いた断片を読み続ける。
カウントすると、5289のファイルがあった。
我ながらすごい量だな。

昼食、ひとりで。
イチゴとホイップクリームのサンドイッチ、ダージリン。
ついでにリンゴとカルダモンのジャム、グレープフルーツとバナナのジャムを作る。

とりあえずファイルを500ばかり抜粋し、使えるもの200にしぼり、
それを分類したり加筆したりして今日は終了。苦行のようだった。
まだ手直しするけれども。なにせ文体がばらばら状態だ。
疲労困憊のまま、いくらかトド撃ち。

夕食、まありと。
筍とじゃがいもと砂肝のにんにくバター炒め、にんじんの白和え、
厚揚げ入りのカレーうどん、大根のぬか漬け。
ビールはハートランド。

白和えはクルミと塩麹を入れた。
コクが出て美味しい。カレーうどんは市販のルーで。

きゅうりの自家製ピクルスをポリポリしながらレモンハートのトニック割り。
音楽、読書、Twitter。
ドヴォルザークの「弦楽セレナーデ」をクーべリック指揮イギリス室内管弦楽団で。
小川三郎『コールドスリープ』など。

  名乗りそびれたものたちのこと

ベンチに雪が積もります。
その雪をベッドにしようというのですから、
やはり子供たちの木は知れないものです。
川べりにあるベンチですから、
風がびゅうびゅうと吹きつけます。

そんなベンチに彼らは並んで寝転がり、
透き通った雲に覆われた空を見上げ、
何がおかしいのか、
笑ってばかりいます。
そんな姿を見ていると、
もとより私たちに理由などなかったのだなあ、
という気になります。
風が吹いてきただけで、彼らは笑うのです。
それがいくら厳しくても、
そこに悪意さえなければ、
彼らは笑っていられるのです。

わたしは一人の子供の手を取って、
自分の手のひらと合わせてみました。
するとその大きさは、私とちっとも変わりませんでした。
それどころか、
私の手をすっと握りこんで、
絶対的な力で私を閉ざしてしまいました。
一体そんなことをして、
これからどうしようというのでしょう。
私がいなければ実際彼らは、
ここから家へ帰ることもできないというのに。
他の子供たちはそれを見て、
弾けるように笑っています。
男の子も女の子も、
川面に風が小波を起こすように。

私がどんどん小さくなってしまいます。
それは眠りとも違い、
やがては消えてしまう予感すらします。
しかし子供たちに本気で抗議するなど、
大人気ないではありませんか。
私は雪の積もったベンチの隅で、
どんどん小さくなって閉じることを考えます。
するとしかしなぜだか、
心に小さなランプが灯ったような、
そんな気がするのです。
深い深い、
絶望的に終わらぬ夜に灯った、
暖かいランプのような。

閉じていきながら地面に芽をやると、
割れた雪の合間に小さな、
春の芽が顔を出しています。
つるつるの茎、つるつるの肌、
子供たちはそれを見ても笑うのです。
まるで全ての色は、自分たちが決めているというかのように。
しかし考えてみれば、
今年の雪は去年の雪とは少し色が違うようですし、
川が渦を巻く音もまた、
聞き慣れたものとは別のようです。

子供たちも私も、空や川や雪だって、
所詮は見て楽しむために作られたものであって、
海のように子孫を残すことはできません。
悪意はないにせよ、存在すなわち破壊であるという意味においては、
みんな同罪なのです。
ただ子供たちは子供たちらしく、暗にこの家を飛び出して、
外へ行こうとしているのでしょう。
その分だけ、子供たちは罪が重い。
子供たちが、笑い続けるものだから、降りしきる雪はもう、
桜と見分けがつきません。
そのようにして子供たちは、
冬と春の境目に爪を立て、
そこからぺりぺりと剥がしてみたり、
秒読みを始めたりするのです。
子供たちに理由など必要ない。
だから私の心には、小さなランプが灯っています。
しかし大人の義務として、今日が完全に閉じてしまわないうちに、
彼等にこの雪の上に、足跡をつけさせなくてはならない。

空は歪んで、とうとう大きくバランスを崩し、
子供たちの肌に直接触れるべく手を伸ばしはじめました。
雲一面にひまわりとりんどうが咲き乱れ、
風は濁流となって世界を押し流していきます。
私は必至で春の芽の色にしがみつき、
自分の罪の重さを恥じて、なのに彼らは寝転がったまま、
雪に埋もれて笑ってばかり、
いつまでもいつまでも、
起き上がろうとしない。
ええ、
子供たちにしてみれば、
まだ午前中なのです。

ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』をちびちび読む。
就寝、3時予定。

Bourbon Pecan Pie (22nd Apr. 2012)

/ 2012年4月23日月曜日 /

起床7時。午前中、少し雨が残る。午後から晴れ。
朝からお風呂やトイレの掃除など。

朝食。もずく雑炊、にんじんのぬか漬け。
昆布多めのかつおだし。

午前中、昨日の原稿の推敲。脱稿。
あれこれトドを撃つ。

昼食、まありと。
親子丼、椎茸と卵の白身のお吸い物、かぶと筍のぬか漬け。
親子丼は1人分につき卵黄を1個余分に入れると味が濃くなっておいしい。
そのぶん塩分控えめでよくなる。

ピーカンナッツとコーンシロップを購入したので、はじめてバーボン・ピーカンパイにトライ。
テキサスのお菓子。
はじめて作るのだが、手持ちのレシピはあまりにバーボンの量が多いような気がする。
ネットで調べてみると、それで正しいらしい。
フィリングがしゃばしゃばになりそうなんだけど、と不安になりながら作る。
パイ生地を寝かせたりする時間が必要だったりするので、結局出来上がりは夕方。
そのあいだ午後中はひたすら読書。

夕食、まありと。
スペアリブの豆鼓煮、ソラマメとたけのこの黒酢炒め、きのこの塩麹和え、
たたききゅうりの紹興酒漬け、ごはん。
ビールはスーパードライ。

塩麹和えは生シイタケ、舞茸、しめじ。
ごま油を加えてみた。よく合う。新発見だった。

食事後もずっと読書。
ステファニー・ダリーの『バビロニア都市民の生活』など。

紀元前19世紀、北メソポタミアのマリを統治していたヤスマハ・アッドゥのある日の献立は
以下のようなものだった。
(ちなみにヤスマハ・アッドゥはワイン好きで食道楽な王だったことは知られている)

クム・パン900リットル、サンミダートゥム小麦でつくったパン60リットル、ブッルム穀で作った「酸味」のあるエムスム・パン2020リットル、ケーキ950リットル、大麦で作った「酸味」のあるエムスム・パン2185リットル、アラッパーヌム酒940リットル、ヒヨコマメ100リットル、イスククム小麦11リットル、サスクム挽割小麦6リットル、サンミダートゥム小麦3リットル、(亜麻仁)油70リットル、蜂蜜(またはナツメヤシ・シロップ)3リットル、亜麻仁4リットル、ナツメヤシ5リットル――以上キスキスム月第4日、マリ王とその付き人の食事。

もちろんこの「リットル」という単位は便宜上の表記で、
実際にはどのくらいの量を示しているのかはよくわからないまでも、
この後の王の食事の記録に比べても桁違いな量の食事だったということはわかっている。
ここで酒として「アラッパーヌム酒」の名が挙がっているけれども、
これはビールにザクロの香りをつけた甘いカクテルのような酒であったらしい。
まことに洗練されている。

深夜、星見をする。
今日はこと座流星群。しかし極大は15時だった。そのせいか少ない。
1時間半ほど外にいて、見えたのは5つだった。

行灯をとぼさず春を惜しみけり  几董

外でバーボン・ピーカンパイを少し温めて食べる。
激甘なんだけどバーボンの香りの残っていて結構大人な味。
レシピの、あの大量のバーボンは意味があったってことか。
七輪でお湯を沸かして、I.W.ハーパーを割って飲む。

今夜は、ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』をお供にベッドにはいろうと思う。
就寝、3時予定。

Hello World (21st Apr. 2012)

/ 2012年4月22日日曜日 /

6時起床。曇りのち雨。
妙な夢。戦争の夢だった。

朝起きて、掃除をし、キッチンを磨きながらパンを作る。
山を越えたし、なんとなく気分もよかったから。

朝食、まありと。
焼きたてのシナモンロール、焼きトマトのマリネ、キウイのヨーグルトサラダ、コーヒー。

朝食を終えて仕事。
Kさんところの原稿4枚を失念していた(といっても来週金曜日が締切なのだが)ので、
さっさと終わらせ、昼から読書をしようと計画していたのだが、
まありが矢部の黒木の大藤を見たいというので出かけることにする。
雨も降りそうだし、正直あまり乗り気でもなかったのだけれど、
来週以降はおそらく部屋から出れないとも思ったから。
とはいえ、原稿をさくさく終わらせるように努力。

昼前には家を出ることができた。
とりあえず、電話でおさえることができたIBでランチ。

プリモ:赤ワイン風味のベーコンとクレソンのサラダ、たけのこのリゾット(木の芽)、リコッタと菜の花のパッケリ・オーブン焼き
セコンド:佐賀牛ロースのエギュイエット、佐賀牛もも肉の低温グリエ
コントルノ:ホワイトアスパラガスと生雲丹のサラダ
ドルチェ:ストロベリースフレ、バニラアイスクリーム

のこのこと出かける。
車の中では、初音ミクを聴いたりエグザイルを聴いたり。
昼ごはんは食べたのに、朝焼いたシナモンロールをmgmgしながら運転する。

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

僕はいつでも スレ立てする
串をさしかえ 自演の日々

スレを開けば 全レスする
ボカロスレには 書き込まない

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

まとめサイトの 赤い太字
世界で僕が 生きた証

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

誰かがうpした ZIP の
パスが解けなくって 泣きたくて
このまま落ちる そんな時
次のスレを開く喜び
抱きしめて

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

黒木の大藤に着くころには、雨。
コンビニで傘を買い、境内で鑑賞する。
まだ三分咲きほどか、お客さんも少ない。
正岡子規は、藤の花は曇り空が似つかわしいと書いていた。
いわんや雨の日をや。

藤の花長うして雨ふらんとす  子規

この句ほど、花房も伸びきっていてはいなかったが。
帰りにソフトクリームを食べて元気を出して帰る。
帰宅17時半頃。

夕食、まありと。
タットリタン、鯵のラー油漬け、トマトともずくの酢の物。
ビールはアサヒスーパードライ。

タットリタンは骨つき鶏もも肉、じゃがいも、にんじん、たけのこなどを入れた韓国の辛い煮込み料理。
コチュジャンは使わない。
その分のコクやうまみを出すために、必ず骨つきの鶏もも肉を使う。
粗挽き唐辛子と細挽き唐辛子を混ぜて使うのもポイント。
韓国産の唐辛子を使うと香りがいい。
〆にじゃがいもを練り込んだ韓国のインスタントラーメンを投入する。
この麺だと、もちもちしていて煮込んでもなかなか伸びない。

鯵のラー油漬けは、韓国風のカルパッチョのような感じ。
エゴマの葉があればよかったんだけれど、今日は大葉。

夜、タンカレーをトニックで割りながらひたすらぐびる。
読書、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』第10巻など。
伏見せんせいが吹っ切られたようでたいへんうれしい。

「こんな日は、難しい諸々はなにもかも忘れて、部屋でエロゲとかするといいよ。トラックボール買って、モニターアーム使って、ベッドに寝転びながらエロゲ。仰向けでね。頭は低反発枕に乗せるといい。そうやってリラックスした体勢で、かわいい妹たちと戯れてると、悩んでたことがバカらしくなって、人生って素晴らしいって思えてくる。幸福の直中で、冴えたアイデアだって浮かぶ。もし浮かばなくても、そうやって過ごした時間は人生の宝物さ」
こいつは頭がおかしいが、とてもいいやつだ。

本垢で集中的に討議したり、メールを買いたり。
結局、まともに本を読む時間がなかった。
寝るまでのお供は、昨日と同様、ステファニー・ダリー『バビロニア都市民の生活』。

就寝は2時予定。

Meditations on Afrocentrism (20th Apr. 2012)

/ 2012年4月21日土曜日 /

6時起床。また妙な夢で目が覚める。
曇り、ときどき弱い雨が降る。

まありが朝早くに出かけて行ったので、朝食は抜き。
顔を洗って、もくもくと推敲作業。
ときどき昨日焼いたオールバターショートブレッドをかじりながら。

どうも推敲ってのは、やってもやってもきりがないような気がしてくる。

昼食、ひとりで。
パンプディング(チーズがっつり)、きゅうりのピクルス、コーヒー。
ピクルスは昨日仕込んだもの。もう少し待った方がおいしいかな。

午後もただ黙々と推敲作業。

夕食、まありと。
和牛ホルモンのピッツァ、エビと白いんげん入りの豆乳グラタン、
春菊と生ハムのサラダ、ミニトマトのピクルス。
ビールはハイネケン。

ホルモンは下処理して冷凍していたもの。
ピッツァ生地は既製品、ホルモン+ゴルゴンゾーラ+パルミジャーノ、ホルモンがっつり。
豆乳グラタンのほうはチーズなし、自家製パン粉。
このピクルスも自家製。こちらは漬かり具合は上々。
明日にはワインとも合いそうかな。

23時半、最後の推敲を終える。
脱稿。

お酒を飲みながら、イアン・ジェフリー『写真の読み方』をようやく読了。
おそるべき翻訳のダメさ。
同じ業界にいてこういう訳を読んでしまうと、怒りと悲しみに我を忘れてしまう。

写真はあなたを不死にすることができる。あるいは少なくともあなたを現存させ続けることができる。例えばブラーボは、床屋と客を見て、客が選ぶ向きでその男が貧しく思慮深い性格であることを理解した。ここではある知覚が提示されているのだが、その考えがブラーボに起こった瞬間、あなたもその眼差しを共有することができるだろう。もう一枚のイメージの凸凹のリズムと、流体と影の楽しい配列も同様である。アルバレス=ブラーボが見たとき、あなたにもそのシーンが一瞬にして現れ、またそれを同じように認知するだろう。このように写真が機能するためには抑制がなくてはならない。細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。

「あなた」ってなんだよ(笑
「細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。」ってどういう意味なんだ?(笑
なんで読者をここで厭味ったらしく説教しちゃうの?(笑
創元社が悪いだろ、こんなもん出版したらあかん。

レモンハート・デメララ151をぐびぐび。
むさぼるように本を読んだ。
ステファニー・ダリーの『バビロニア都市民の生活』を読みながら今日を終える。

就寝、2時半予定。

Mενων (18th Apr. 2012)

/ 2012年4月19日木曜日 /

6時起床。曇ったり晴れたり。
朝から洗濯と掃除をする。

朝食、まありと。
(昨夜作った)トマト蒸しパン、春人参のサラダ、アッサム。

トド撃ち、6枚原稿を終わらせ。
明日推敲予定。

昼食、ひとりで。
カブの葉のペーストとパルミジャーノのリングイネ、コーヒー。

午後、散歩がてら買い物。
ナン、村山製油のなたね油、カリフラワー、春キャベツ、イチゴ(完熟だった)、コーヒー豆。
いつものベンチでしばらく読書。

葉桜に混じってちらほら残ってる花。
桜の下を通ると蘂がぽとぽと落ちてきて、胸元に入ってきた。
ほかに白つつじ、こぼれる山吹。

散る花のあれば残花のあることを  稲畑汀子

わが庭の桜蘂降る旅帰り  稲畑汀子

垣なくて妹が住居や白つつじ  雁宕

山吹の一重の花の重なりぬ  高野素十

ここで『メノン』の新訳を読了。
自信家の若者メノンが実に初々しく、愛おしくなる。

メノン あなたはすぐれた話をされたように思えます、ソクラテス。どうしてそう思えるのかはわたしにはわかりませんが。
ソクラテス ああ、それはそうだろう。わたしだってどうしてそう思えるか自分で知らないまま、すぐれた説だと思っているのだからね、メノン。他のいろいろのことでは、この説について確信を持って主張しようと、わたしは思わないのだよ。
だがわれわれは、自分が知らないことを探求すべきであると考えるほうが、よりすぐれたものであり得るし、より勇敢であり、より怠けない者であり得るのだということ――この点については、わたしは自分にできるかぎり、ことばで大いに主張するつもりだし、実際の行動でも十分に示していこうと思うのだ。

帰宅して翻訳推敲作業。8割終り。
今週中に終わらせたいところ。

夕食、まありと。
カリフラワーとポテトのカレー、カブのナンプラー和え、
ヨーグルトとイチゴのサラダ、ナン、きゅうりのぬか漬け。

カレーはチキンとトマト入り。
クミンシード、ターメリック、コリアンダー、ガラムマサラ、レッドチリパウダー。
ヨーグルトは使わないでなたね油多めに。でもあまり重くならなかった。
カレーで油をけちってはいけない(油の値段にせよ量にせよ)

21時半よりスカイプ会議。
若い人も含めて5人で。わたしは基本的に聞き役に徹する。
レジュメを明後日もらって、朱を入れることになる。
23時終了。

オールド・グランダッド・ボンデッドをウィルキンソンで割ってぐびぐび。
飲みながら音楽を聴いたり、読書をしたり。
イアン・ジェフリーの『写真の読み方』を読み始めるが、訳があまりに酷い。
なんでこんなふうになったんだろう・・・

就寝、2時半予定。

Die Stadtkrone (17th Apr. 2012)

/ 2012年4月18日水曜日 /

5時起床。
今日も変な夢を見て起きる。

食事もせず、すぐに用意してタクシーで空港へ。
朝一の飛行機。羽田へ。
タクシーの中でも飛行機の中でもずっと資料を読みながらの移動。
タクシーの運転手さんとの会話もほとんど覚えていない。

羽田に着くと、すでにKM氏が来ていて、片手をつかまれ引きずられるように移動。
一刻も惜しいのはわかるのだが、いつにも増して扱いがぞんざいな気がする。
途中で缶コーヒーが欲しいと言ってみたのだが、会社についてからでいいですか?と拒否られる。

神田に到着と同時に、すぐに編集氏、カメラマンなども含めて2時間ほど打ち合わせ。
飲み物は出されるものの、エメマンでも缶コーヒーですらなく、紙コップに入った紅茶だった。
KM氏もわりと緊張しているのか、説明が早口気味なのを観察したりしていた。

移動中の車の中で用意してくれていたお弁当を食べる。
鮭フライ弁当。意外と身が厚くておいしかった。
けど、走っている車の中でお弁当を食べるなんて、もしかすると生まれてはじめてかもしれない。

渋谷セルリアン、まだ誰も到着してない。
カーデは脱いだ方が良いといわれる。
寒いじゃんと言うと、いや発売される時期的な問題で、と。
そうか、そうだよな。そのへんがまったくわからん。

Kせんせい、Gせんせいも来られる。
予定の2時間を超えて3時間近く話をする。
思った以上に射程の広い話になる。
いろいろ印象深いこともあったのだけど、ここには書けない。

ご挨拶して、おふたかたと仕事の約束させていただく。
終わったと同時に、KM氏と神田へ。
今後の編集方針について大枠を決める。
こういうときにICレコーダを回しているKM氏はさすが社畜であるな、と妙なところで感心をする。

羽田の最終便。
ロビーでKせんせい、Gせんせいらにお礼のメール。
土産もなしに帰福。帰宅は22時半。
シャワーを浴びて、読書をしながら、夜中に蒸しパンを作る。

ブルーノ・タウトの『都市の冠』など。
タウトは第一次世界大戦下、モダンの限界としての総力戦と都市の徹底的な破壊のなかで、
モダンの悪しき側面を超克するためにある種の「汎神秘性」を導入する。
そこで称揚されるのが、マヤやアンコールワットのような古代都市となる。

太陽光に貫き通されて、水晶館は輝きを放つダイヤモンドのようにすべての上に聳え、最高の歓喜、もっとも純粋な喜びを見出し、その空間の中にある階段を伝ってより上部のテラスに登りつめ、足下にこの都市を見、その背後に太陽がのぼり、沈むのを目にする。この都市とその都心はこの太陽の運行方向に厳密に合わせてある。

しかし同時に、この幻想的な都市は垂直性も志向する。
ゴシック建築のような垂直性を都市の中心に据え、そこに「都市の冠」を見る。

モダニストでありながら、モダンの限界にこういう神秘主義を置いた人物がいたということを
311を経た後のわれわれはどう考えるべきなんだろうか。

就寝、2時半予定。

Massena Harcour Mikado (16th Apr. 2012)

/ 2012年4月17日火曜日 /

起床3時。妙な夢で起きる。
終日晴れ。

早朝6枚、さくさく。

朝食、まありと。
たらことふきの煮もの、ほうれんそうのごまよごし、豆腐のお味噌汁、大根のぬか漬け、ごはん。

明日の準備。資料集め、レジュメ書きなど。
脳みその畑を耕しながら、スキャンしたり、加工したり、メールしたり。

昼食、ひとりで。
全部午前中の残り物ですます。

午後、6枚推敲、脱稿して流す。
あとは資料準備、レジュメのまとめなど。
ふっと外を見るとつつじ、木瓜、花海棠が咲いているのが見える。

庭先の山がかりたるつつじかな  高濱年尾

更紗木瓜透かしてさらに更紗木瓜  永井龍男

海棠の静かにちるや石畳  吟江

夕食、まありと。
鯖の味噌煮、にらの黄身味噌和え、春牛蒡の煮つけ、
三つ葉と小町麩のお吸い物、人参のぬか漬け、ご飯。
ビールはハートランド。

鯖の味噌煮の落とし蓋はお皿を使う。
重さがあったほうが煮崩れない。当然、煮ている間は箸で動かさない。
米味噌を使う。鯖の間にぽつぽつ置くように加える。

牛蒡も煮方にコツがあって、特に春牛蒡は水分が多くて柔らかくなりやすいから、
7、8分火を通したらあとは余熱で火を通す感じ。
黄身味噌はゆで玉子の黄身を潰して、味噌、砂糖、酢と摺り混ぜる。
砂糖と酢はごく控えめに。
まったく牛蒡が美味しくなったものだ。

夕食を食べている時に従姉から到来物。
中身を空けたらバカラ。ミカドだった。
このあいだの詫びというのことなのか、それとも自分専用ということなのか。
マッセナとアルクール、ミカド。バカラのタンブラーは3個目。

夜、バックミンスター・フラーからディドロまで横断する話を副垢Twitterで。
とても勉強になる。

今日は明日が早いので早寝。
ブルーノ・タウトの『都市の冠』を読みながら寝る。
そうか、この神秘主義的でユートピアへの濃厚な希求は、大戦によるものだったのか。
身につまされる。

就寝、1時予定。

o/d (15th Apr. 2012)

/ 2012年4月16日月曜日 /

起床7時。晴れ。
先日の3枚を推敲、納品。

朝からまありと出かける。
朝食はミスドで。
ゴールデンチョコとかポンデリングとかカフェオレとか。
お粥的モーニングではなく、忍的セットで。

本屋、古本屋、レコ屋には立ち寄らないという縛りで終日服を買って回る。
結果、買いすぎる。

昼食、THで酸辣湯麺。
o/dのガサ入れの話を知る。石野卓球氏のイベントでとのこと。
たいへん不快。福岡県警はクソ。

夕方まで服だのバッグだの靴だの。
どうにも服を選ぶのが苦手なので、まありに助言をしてもらいながら。
と、BBBでうすはりのビアタンブラー、ワイングラス、林さとみの粉引スープ皿とか。

まありの希望で、夕食はUで焼肉。
牛タン、サガリ、シャトーブリアン、ザブトン、壺漬け中落ち、牛たたきのカルパッチョ、
スモークビーフ、カルビ、ホルモン、白コロ、赤身モモ、
焼き野菜、ハルミサラダ、テールスープ、ごはん。
スーパードライの生ビール。
肉だらけ。

スモークビーフは真っ黒になるくらい片面に粗びき胡椒をまぶしたリブロースを
ナラ材で10時間燻製したとかで、骨の間の肉がとろとろで強烈においしかった。
ハルミサラダは、きゅうり、トマト、素揚げしたチーズ、くるみ。イスラエルのサラダ。

肉を食べていると、ほんとうにひさしぶりにTSくんと遭遇。
昨夜のイベントにはいたらしく、事情を聞く。
酷いとしか言いようがない。この国での自由な表現というのは、もう終わりかもしれん。

わたしたちふたり+TSくんたち数人で、ABAQで飲み直す。
カルヴァドス、マールなど。

帰宅、0時すぎ。
シャワーを浴びて、リビングでぼーっとテレビをつけて、くだらない番組を見てたら、
いつのまにか寝ていた。

Furtwängler (14th Apr. 2012)

/ 2012年4月15日日曜日 /

起床5時。曇りのち晴れ。
トド撃ち、3枚の原稿をさくっと仕上げる。

朝食、まありと。
昆布だしのおかゆ、きゅうりの古漬けの胡麻和え(昆布+じゃこ)。

午前中、翻訳推敲作業。けっこう直しがあってちょっと鬱。
「在日ファンク」というすごいバンドを発見してアルバムをぽちる。

昼食、まありと。
桜えびのから揚げと水菜の塩炒めそうめん、焼きねぎととろろ昆布のお吸い物、塩でトマト。

まありが食べたいと買ってきた桜えびを使った。
塩炒めそうめん、つまりソーミンチャンプルーみたいな感じ。

午後、校正を1本。即送り。
ほか翻訳推敲作業。

夕食、まありと。
和牛ホルモンのトマト煮込み、揚げた新タマネギと新じゃがの温サラダ、
セロリと春ニンジンのディップ、グリンピースのスープ、バゲット。
ワイン、Bodega Norton Extra Brut。

トマト煮込みはピュレを使った。
ホルモンは昼過ぎから下茹でしたのでけっこう時間がかかった。
わりと多めに下茹でしたので、残りはピザかなにかに使おうかと思う。
サラダの新タマネギはゆっくり時間をかけて揚げ、醤油ベースのドレッシング。
ディップはツナ+マヨネーズ+ヴィネガー。
ワインはアルゼンチン産。1500円の割にはまずまずか。

夜、音楽を聴いたり読書をしたり。
ベートーベンの交響曲第4番をフルトヴェングラー指揮ベルリンフィル(43年)で。

ベートーベンにはつねに、ロジックとしての弁証法を音楽で表現しようという意志が強烈に働いてて、
それはシンフォニーだろうがソナタだろうが、その「形式」への厳密さによく表れている。
ということは、悪く言えば作品が「頭でっかち」になりがちで、
そこを回避するために主題を練りまくっているということだったりすると思う。
ベートーベンについて言えば、身体性のレベルでの表現はいつでも演奏家に委ねられているし、
しかも演奏家が自身の身体性を発揮しやすい主題を、ベートーベンは用意する。

そんなベートーベンの譜は、坂本龍一も言っているとおり、テキストとしては分析しがいがあるはずだ。
それは形式が隅から隅まで浸透しているからであって、そのどこにもベートーベン自身の身体がないからじゃないか。
ドビュッシーとは違う。

しかし、4番だけは曲自身がどことなく熱を帯びているような気がする。
「ヴァーチャルな闘争」の発露って意味での熱ではなく、もうちょっと人間的な弱さを含んだなにか。
形式の弛緩という表現もできるのかもしれないが、ベートーベンにあるまじき「ゆるさ」、のような。
思うにそれこそベートーベン先生自身の身体性ってやつかもしれない。
身体そのものが発するロマンティシズムみたいなもの。

ところが、フルトヴェングラーはそういうベートーベンなど吹き飛ばし、蹂躙する。
フルトヴェングラーとベルリンフィルは、4番にかすかに漂うベートーベンの身体性を覆い尽くす。
なにゆえ? フルトヴェングラーだからってことで理由としては十分なのかもしれないが、これは戦時下での録音だ。
みながみな、死をまじかに感じている時代。
だからこそ、この演奏なのかもしれぬ。

結果的に、まるで「運命」のような4番になってしまった。
フルトヴェングラー、帝王である。

柴田宵曲、『明治の話題』など。
緑雨先生のエピソードが興味深い。ここは露伴と緑雨のかかわり象徴する一節を。

斎藤緑雨の葬式は明治三十七年四月十六日、本郷東片町の大円寺で営まれた。風交りの雨がドシャドシャ降つた日で、「緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲愴なる祭文を読んだ」と内田魯庵が書いてゐる。この祭文は当時何にも発表されなかつたらしいが、近年になつて現物がどこからか出てきた。「惟明治ノ三十七年四月十三日、緑雨斎藤賢君卒す、嗚呼哀哉、天の才人にさいはひせずして世のはやく詞客を失へることや、予の君に於ける生前既に交を許す、死後何ぞ情無からん、哀惜やまず、哀以て終りを送り辞以ておもひをしのぶ」とあつて、後半は「出蘆」のやうな詩の形になつてゐる。「死してもほろびるものは、いのちながしと猶龍の、云ひたる詞おもしろし、文字ほろびず文字世にあり、才ほろびず才長く在り、嗚呼君長くいのちありけり、嗚呼君長くいのちありけり、人間の寿夭また何ぞ論ぜん」といふやうな言葉でも、うす暗い寺の本堂で露伴自ら霊前に手向けるのを聴いたならば、何人も多大の感動を受けたに相違ない。

就寝、3時予定。

type the END (13th Apr. 2012)

/ 2012年4月14日土曜日 /

起床7時。夕方までずっと雨。

いきなり北朝鮮のミサイル発射の報。1分後に黄海上に落下と。
とんだ茶番ではないか。

朝食、まありと。
ジンジャーブレッドにクリームチーズを塗って、ネーブル、アッサム。

ジンジャーブレッドには、ジンジャー、クローブ、シナモン、ナツメグのパウダーを入れる。
割合は試行錯誤中なんだけれど、心もちクローブを多く入れたほうが美味しいかもしれぬ。
そしてこれには紅茶。

メディアでは、ほとんど終日、北朝鮮のミサイル発射のニュースが続く。
そのなかで、翻訳の推敲作業。

昼食、ひとりで。
朝のジンジャーブレッド残り、蒸しかぼちゃ、アッサム。
ジンジャーブレッド、少し寝かすと美味しくなった。
かぼちゃはレンジでチンして岩塩とオリーブオイル、胡椒。

雨が少しずつ弱まってくる。
午後も推敲作業。トド撃ち。
ちょっとアネモネのことを考える。

まあ、人生いろいろってところかな。
心残り? ないって言ったらそんなの嘘になるって決まってる。
私もまだまだ若いし、買い物だってしてみたいし。
おいしいものだってもっとたくさんいろんなもの食べたいじゃない?
そりゃーね。そりゃーすてきな恋だって。
そういうの出来れば、ホント最高なんだけど。
そう、ホント最高。
だけどなんだかね、ホントあーあ、って感じ
ホント、あーあ。

夕食、まありと。
エビとスナップエンドウのマヨネーズ炒め、揚げじゃがいものXO醤煮、
ひじきとゆで野菜の黒酢和え、トマトのスープ、ごはん。
アサヒ・スーパードライ、お燗した塔牌紹興酒。

不快極まりないことに、政府は大飯原発再稼働を進める本心を固める。
北朝鮮のミサイル発射と同じタイミングだということが、心の底から不快。
FBで今後の方針を決定する。

田中ユタカ先生の『愛人 ai-ren』を想起し、アネモネと重ねて考える。

世界はひとごろしの夢でできている

もし、誰も傷つけずに生きて良いと言われたら
風にそよぐ髪を束ね、大きな一歩を踏みしめて、胸を張って会いに行こう。 

メールで予定の打ち合わせ。
来週は急きょ上京か。

就寝、2時予定。

Ballet Mecanique (12th Apr. 2012)

/ 2012年4月13日金曜日 /

起床6時。天気はまずまず。
従姉の家出騒動がおさまり、青野武さんが亡くなり、昨日はアチェで地震。

朝食、昼食はなし。
まありはお友だちの家に遊びに行っていない。

朝、シーツやシャツにアイロンをかけた後ひたすらに仕事。
まったくお腹もすかないし、常盤堂のおかきなんぞを食べ、お茶を飲みながら
淡々と校正を4本する。

昼過ぎには終了。さらにトド撃ちに。
メールを数通、書類を何枚か書き、投函。
15時には仕事を終了。

音楽を聴いたり、読書をしたり、ネットをしたり。

夕食、まありと。
棒だらとこんにゃく・焼き豆腐の煮物、揚げ茄子の柳川風(粉山椒たっぷり)、
こごみの白和え(くるみを混ぜた和え衣)、干菊と長芋のおひたし、
大根とにんじんのぬか漬け(ちょっと古漬け気味)、ちかえの明太子、ごはん。
日本酒は緑隆、全部飲みきる。おいしかった。

竹内幸絵『近代広告の誕生』、読了。

室田庫造は『広告界』編集長就任から二年後の1929年、新しい広告用語の普及に乗り出す。室田が日本に初めて紹介したその新語は「レイアウト」だ。
三年後、学術書の多くが「レイアウト」という言葉を用いて広告表現を論じるようになる。これを見る限り室田の目論みは成功したようだ。『広告界』誌上での室田の記事をきっかけに、この新語は1930年代に広告関係者の間でいわば「流行」するのだ。
ところで、戦前を振り返って戦後、「レイアウトマンから発生して、アートディレクターという考えにたどりついた」と書いた制作者がいる。レイアウトマン? 戦前にはこの奇妙な呼称の「レイアウトを行う専門職」が存在したようだ。どんな人がその職につき、彼らは何を職務としたのだろう。

この「レイアウト」という概念が30年代日本の広告業界にどう受けいれられ、
幻の40年東京オリンピック・プロパガンダ、さらに総力戦体制の構築にまでつながるか。
スピード感のある記述でおもしろかった。

夜、「エウレカセブン」46-50話。
やはり「バレエ・メカニック」の回は泣く。
と、これがセカイ系にカテゴライズされていることに違和感を感じる。
そもそも、エウレカの姿がどんどん変貌していく(まるでハンセン氏病のように)こと。
たとえばそれは『最終兵器彼女』と対比できるわけだが、人体×機械という根本的に異質なものの組み合わせではなく、
エウレカの場合は、生物と生物、緑色をしたゼリー状の身体が人間の身体から湧き上がるように
(それこそ大地から生えるスカブのように)変貌していく。
他者は、わたしが理解可能な性質を残したコンプレックス(複合体)としてではなく、
そもそも生理的に受け入れがたい、触覚が先行する実体として出現する。
それをレントンが乗り越えていくこと。
「触っていい?」とエウレカに尋ねて、おずおずとその羽に手を伸ばすこと。
そう考えると、わたしにはとても「エヴァ」と比較する気にはなれない。

就寝、4時予定。

Servante de Feu (8th Apr. 2012)

/ 2012年4月9日月曜日 /

起床7時。春らしい晴天が続く。

朝食、まありと。
まありに朝からパン屋さんで1斤食パンを買ってきてもらって、クロックマダム。
ニンジンのはちみちレモン蒸し、アッサム(レモンティーで)。

ぼちぼち仕事を始めていると、従姉のRちゃんから電話。
昼過ぎに訪問するとのこと。
いつでもこのひとは突然で、しかも間が悪い。
甘いものが好きな人なので、マシュマロ・レアチーズケーキとあまがしの準備をする。

昼過ぎ、という話だったのに12時過ぎにRちゃん到着。
空港からって話を勝手に羽田だと思っていたけど、実はすでに福岡空港だったらしい。
しかもお土産が福岡空港で買った「ちかえの明太子」とか・・・

昼食、3人で。
生ハムとラディッシュのサンドイッチ、春ニンジンだけのサンドイッチ、かぼちゃのポタージュ。

食事をしながら話を聞くに、要するに姑さんや旦那さんと喧嘩をして家出したらしい。
だいたいこんな話をした。Twitter副垢から転記。

「ずいぶん急に来たよね。わたし仕事あるからあんまりお構いできませんけど(ようするに、はやく帰ってほしい)」
「いいのよー 気にしないでー あー、喉渇いたわねー」
「・・・」

「あら。今日はサンドイッチがお昼ごはん?」
「さっきお昼過ぎに来るって電話だったから、もっと遅い時間に来るんだろって思ってて(「お昼過ぎ」って言ってたのに、なんで12時15分に来るんだよ)」
「朝ごはん食べてなかったから、急いできちゃった」
「・・・(どこぞで食ってから来いや)」

「春よねー、あったかくなったわよねー 桜は満開過ぎたの? 喉渇いたわねー」
「・・・あの、どうしたの? 友だちと会うとか?(はやく帰ってほしい)」
「え? ちょっと旅行よ? ついでに寄った。ダメだった?」
「・・・そんなことないけど」

「で、ホテルはどことってるん?(仕事したいねん)」
「喉が乾いたねー 小娘ちゃんはどう?」
「う、うん。・・・ちょっと・・・乾いたかな・・・?」
「あの・・・、ホテルは・・・(はよ帰れはよ帰れはよ帰れ)」
「まありちゃんも喉が渇いてるのかー、そーかー」
「・・・(なんだこれ)」

「甘いもの食べたいわねー」
「レアチーズケーキ作ったけど、こんなに早く来るとは思ってなかったから、まだ固まってないよ。もうちょっと待って」
「あ、そう。喉渇いたー」
「・・・」

「で、ホテルは?」
「喉、渇いた」
「ホテルは?」
「喉が」
「ホテルは?」
「・・・まだ」
「は?」
「まだ、ホテルとってないけど、それがどうかした?」
「・・・」

「あー、喉渇いたわー」
「・・・お茶、淹れるね」
「面倒でしょ、いいのよ。わたし、冷たいのが飲みたいし」
「ごめん。アイスコーヒーも麦茶も切らしてる・・・」
「あー、気にしないでー 喉渇いたけど」

「・・・まあり、スーパーで発泡酒買ってきて、発泡酒(発泡酒以外は買うな)」
「・・・うん」
「あー、まありちゃん。気を使わなくていいのよぉ。冷蔵庫開けてみていい? あらー、ギネスがある。これでいいわ。ぐびぐび」
「・・・(はよ、帰れや)」

「で、ホテルはどうすんの?(わたしは仕事したいねん)」
「ギネスおいしいなー ひさしぶりだなー」
「あの、ホテルは・・・」
「泊めろよ」
「・・・」
「ふつうこういうときは泊めるもんでしょ? 常識ないなー いい年なんだから、そのくらい察した方がいいよ」
「・・・はい(やっぱりこの流れか)」

ごはん食べて、従姉はごろ寝をはじめたので、こそこそ旦那さんに電話すると、
「今日から出張だが、あさって迎えに来る」と。
・・・しかたない。

とにかく愚痴につき合わされる。
典型的な嫁姑問題なようなんだけど、わたしにはよくわからない。
仕事部屋で愚痴られるのはかなわないので、リビングでプロットを練りながら生返事で話を聞く。
本も読めないし、音楽も聞けないし、まありは家庭教師のバイトに行ってしまった。

明日はKMさんが来福するので、外で打ち合わせのつもりだったけれども、
この状況なので自宅まで来てもらうことにする。
ものすごく申し訳ない。
ただ、従姉本人はどうやら観光をするらしいけれども。
ホテルにはあくまで泊まらないということらしい。

夕食、三人で。
鶏天、がんもどき、高野豆腐の揚げだし、揚げじゃがの煮っころがし、
きゅうりとじゃこの酢の物、筍と桜えびの炊き込みごはん。
お酒はヱビスビール、緑隆・純米吟醸を冷やで。
デザートは干し柿の天ぷら、あまがし。

がんもどきには、ひじき、干し椎茸、切り干し大根を刻んで入れ、練り辛子を添える。
鶏天は「またいちの塩」で。
干し柿は衣を厚めにつけて天ぷらにすると、甘みが増しねっとりした食感になっておいしい。
あまがしは、シロップを煮含ませた押し麦、緑豆、白玉に、黒蜜をかけて食べる冷たい沖縄のお菓子。

まあ、従姉と話をするのは楽しい。というかおもしろい。
このひとが話術に長けているのはたしかだ。むかしからそうだった。
しかし、それゆえにこのひとといると、後で感じるむなしさがハンパないのだ。
現にいまだって、今日はなんて無駄な時間を過ごしたことかと、後悔極まっている。
悔しくて、眠れるかどうかも自信がない。

夜、わたしが部屋で仕事しているところにやってきた従姉は、
棚から何枚かレコードと、アニメBDのソフトとを持っていった。
気にしてなかったけど、あとで何を見ているのかと思ったら、
積んでいた「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」だった。
シュリンクすら破っていなかったのに、それを全部開けて、
ソファーに寝そべり、わたしの作ったチーズケーキを食べながら見ているのだった。
きっと、みつばだったら「とんでもない雌豚だよ」と言うだろう。

夜、仕事をしながら「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」のサントラを聴く。
心の慰めはこれくらいしかない日だよ。

就寝、2時予定。

Sun Moon Star (7th Apr. 2012)

/ 2012年4月8日日曜日 /

起床7時。今日も終日晴天。
朝から洗濯と掃除。

朝食、まありと。
春キャベツとベーコンの炒めもの、昨夜のおからと呉汁の残り、ごはん。
炒めものはにんにくとバター醤油味で。

午前中、詰まりながらも、仕事。
どうも意味がよくわからない表現があるので、Nせんせいにメールする。
回答が10分で戻ってきた。さすがである。お礼にハムを送ろうかと思う。

昨日作ったベークドチーズケーキ、だいぶ味が馴染んでおいしくなっていた。
今日と明日はこれで乗り切れるな、と思う。

昼食、まありと。
やわやわカリフラワーとチーズのパスタ、干し野菜の温サラダ。
サラダは春大根、新人参、新ごぼう。オリーブオイル、レモン、塩。

午後も翻訳。
TLに松徳硝子の「うすはり」の情報が流れてくる。
BBBで扱っているらしい。
週が明けたら、見に行こうと思う。ワイングラスで4k程度。

レコ屋から先月後半の注文品がまとめて届く。
聴く暇なんか正直ないわ。

夕食、まありと。
春キャベツと茹で塩豚のピリ辛サラダ、干し大根と菜の花のやわらか煮、
沖縄風の昆布のお煮つけ、麩入りの茶わん蒸し、わかめのすまし汁、ごはん。
日本酒は、緑隆・純米吟醸。今日はじめて封を開けた。バランスがいいお酒。

PAC3の話などをしていると、ずいぶん鬱になる。
『神様のメモ帳』で、アリスはこう言うのだ。

「・・・ネットのそこらじゅうに窓を開いて、世界を見回していたのさ。きわめて限定された、歪んだ世界をね」

「・・・毎日ずっと、だ。そうしてぼくは情報だけを体内に貯め込み、己の無力さだけをドクターペッパーで胃の中に流し込んで生きてきた。ぼくがこの世界に存在する意味を、ずっと探し続けてきたんだ。」

「ねえ、知っているかい? 今現在、この地球上では3.6秒に一人の割合で、子供が貧困のために死んでいる。実はそれはぼくのせいなんだ」

「純粋な可能性の問題だよ。いいかい、もしぼくに充分な資産があり、食糧生産ラインがあり流通経路があれば、ぼくは餓死する子供を救えたはずなんだ。貧困問題を憂えているわけではないよ、ぼくは聖人じゃない。繰り返すが純粋な可能性の問題だ。」

「ぼくにその能力があれば、死んでいく子供を救うことができた。であれば、彼らが死んでしまったのはぼくの能力が足りなかったせいだ。同様に、テロリストが旅客機をハイジャックしてビルに突っ込んだのは、ぼくにそれを止める能力がなかったせいだ。」

「震災や津波で甚大な被害が出たのも、ぼくにそれを予知する能力がなかったせいだ」

「ぼくはそういう風にして、時間をかけて自分の無力さを確かめた。具体的に言えば八年くらいかな。これほど無力なぼくが世界に対してなにを為せるのかを、知りたかった。たとえば無力に死んでいくひとたちをどうにかできるのか。あるいはなにもできないのか」

「だから、ぼくは探偵になることを選んだ」

「わからないかい? すでに死んでしまったもの、失われてしまったものに対してなにか意味のある仕事が為せる職業は、この世の中でたった二つしかないんだ。つまり作家と探偵だ。」

「作家だけがそれを夢の中でよみがえらせることができる。探偵だけがそれを墓の中から掘り返して情報に還元することができる。それは宗教家にも政治家にも葬儀屋にも消防士にもできないことなんだ」

物書きになってよかった。

ほんとは今日が満月。南東の空に、土星とスピカも集まる。
東側の黄色っぽい星が土星、西側の真白いスピカ。
チーズケーキとコーヒーを持ってベランダで星見をした。花冷えの夜。

ずたずたの心で春を惜しみけり  長谷川櫂

星見のあと4枚。
1時間ほどで終わらせる。明日、推敲予定。そのあと読書。

宇宙の造物主が
この地球へやってきたとき、
にぎやかな宿のそばの
家畜小屋のなかで
人間の男の赤ちゃんとして
生まれようときめたときは、
それまで目が必要だったことなど一度もなくて、
すべてを知り、すべてのものでありました。
ただそこにいるだけでじゅうぶんでした。
人間の赤ちゃんとして、
いろんなものを
人間の二つの目で見ることになりました。
ちっちゃなぶよぶよの両方のカメラで。

カート・ヴォネガットが書いた唯一の絵本『お日さま お月さま お星さま』を読む。
彼はユニテリアンで、神や信仰に対してはきわめて矛盾に満ちた態度を終生とった。
不可知論者であったのに、この絵本はイエスの生誕に取材したものだ。
イエスを通して、神の生誕が語られる。
これもまた正統派の信仰とは異なるもの。
でも、ヴォネガットらしい、ひねくれててあたたかい絵本。

エドガー・ツィルゼル『科学と社会』、読了。
「もともと科学者は高級職人だった」説のひと。
自然の解析自体に、単なる観察を超えた「計測する技術」が必要となった結果、
自然科学と技術学は接近し、よき科学者はよき職人と同義となる。
職人とスコラ学の融合が科学である、云々。
すごくおもしろい本なんだけど、これ、スーパーの地下にある変な古本屋さんで300円で買ったんだよな。
しかも、ツィルゼルってウィーンの論理実証主義サークルにもいたというひと。
科学史のなかでは有名なひとになるのかな。よくわからないけど。
ほかに邦訳されている本はないっぽい。

就寝、2時予定。

Die Aktualitat der Philosophie (6th Apr. 2012)

/ 2012年4月7日土曜日 /

起床6時。終日晴天。
朝食をちゃちゃっと仕込んでトド撃ち。

朝食、まありと。
銀だらの甘酒味噌漬、干し大根葉と揚げのお味噌汁、昨日の残りのおこわをおにぎりに。

午前中、翻訳仕事を精力的に。

お昼前にちょっと買い物。公園を突っ切る。
ベンチで読書をしようと思っていたのだけれど、いつものベンチに制服姿のJKがふたり座っていた。
よく考えてみると、今日は始業式であったのかもしれない。
それで、学校がはやめに終わったのかもしれない。
とにかくベンチに並んで座って勉強していた。
わりと珍しい光景なので、いつもの悪い癖でゆっくりぶらぶら歩きながら観察していた。

このふたり、なにか話すわけでもなく、淡々と参考書に赤線をひいたりしている。
ひとりはウザったい前髪の子で、もうひとりは栗色の髪をひっつめている。

栗色の髪の女の子はのどが渇いたらしく、学校指定のさえない色のバッグから水筒を取り出した。
その水筒がたいへん鮮やかなイエロー。
よくよくみると、ステンレスにアクリル塗装されているらしいその水筒は、かなり年季が入っている。
底の角のところ、プラスチックの蓋との継ぎ目あたり、塗装がだいぶ剥げていた。
色は鮮やかなんだが、プラスチック製の蓋(兼コップ)の劣化具合といい、若干みすぼらしい。

で、胴のところには、ピカチュウの絵があった。
わたしはなぜかその絵ではっとしてしまった。
サトシとピカチュウが一緒に並んで笑っている。
だいぶ使い込まれたせいで絵がちょっと薄くなっていたけど。

想像するに、彼女はこの水筒を小学生のころから愛用しているのだろう。
もちろん買い替える機会はあったのだろうが、いまでもあえて使っているのだろう。

中身は温かいお茶らしく、真っ黄色いコップに注ぐと湯気がほかほかあがっていた。
自分が一口飲むと、となりの前髪がうざい女の子にも差し出す。
ありがと、と受け取って、彼女もそのお茶を飲んでいた。よい光景だった。

こういう、それだけではほとんど無意味な光景の記述を、バルトは「アンシダン incident」とよんだ。
バルトはアンシダンにロマネスクをみたけれども、まったくそれには同意する。
ほとんど本旨とは関係ないアンシダンが、物語を豊かなものにする。
それは登場人物や、読者のために「鏡」のごとく機能することがある

事件というほどのものではないにせよ、なにかがそこで、ささやかながら動いた/あるいは動かなかった、ということ。
たまたま「そこ」にわたしが立ち会ったということ。
それを記述するということ。
そしてそれが、いつか物語を豊かにするということ。
そういうことを思い知らされるのだ。

昼食、ひとりで。
温豆腐(豆乳仕立て、干し椎茸、エリンギ、えのき)、タレ2種(豆板醤+ごま油、芝麻醤+塩)。
ご飯はなし。玄米茶。

午後も翻訳。
もう終盤。無理せずとも土日で終わるだろう。
アダム・シルヴァーマンの灰釉のお皿が届く。
けっこういい買い物をした(つもり)。

夕食、まありと。
鰯のこんがり焼きとカリフラワーの黒酢風味、おからの炒り煮、干し人参と春キャベツのごま味噌和え、
トマトとクレソンのサラダ、呉汁、ごはん。
サンクトガーレンのエールビール。
サラダは、さっそくシルヴァーマンのお皿に。

土日に食べるベークドチーズケーキを焼きながら、グラニテを食べたり。
ベランダで星見をしたり。月(暦をみたら、明日が満月だ)、スピカ、土星が並んでいた。
白州シェリーカスクの封を開ける。
たいへん素晴らしいお酒。これからどう変わっていくか、けっこう楽しみ。

アドルノ『哲学のアクチュアリティ』、など。

思考の生産性が弁証法的に証示されるのは、もっぱら歴史的で具体的なものにそくしてのみです。さまざまなモデルにおいてこそ、思考と歴史の具体的なものが対話することになるのです。そのような対話の形式をもとめる努力に対してならば、エッセイ主義という非難を私は甘んじて受け入れます。イギリスの経験論者たちも、ライプニッツも、自分たちの哲学的著作を、エッセイ[試論]と呼びました。なぜなら、彼らの思考が突きあたることによって生き生きと開示された現実の力が、彼らをつねに大胆な試みへと駆り立てたからです。カント以降百年をへて、現実の力が失われるとともに、大胆な試みも消え失せました。だからこそ、エッセイは大きな形式から美学の小さな形式へと姿を変えたのです。そして、本来の哲学が自らの大きな問題においては具体的な解釈を使いこなせなくなって久しいのに対して、ともあれ美学における仮象は具体的な解釈が逃げ延びてゆく場となったのです。
大きな哲学におけるあらゆる確実性の崩壊とともに、美学の領域で大胆な試みが開始されるならば、そしてその試みが、美学的なエッセイのもつ、限定され、輪郭の際立った、非象徴的な解釈と結びついているならば、対象が的確に選ばれ、その対象が現実のものであるかぎり、弾劾されるべきものとは私には思えません。といいますのも、たしかに精神は現実の総体を生み出したり、現実の総体を把握したりすることはできませんが、微細な姿で侵入し、微細な一点で、現に存在しているものの尺度を破壊することができるからです。

初期アドルノの本だけれど、カント以降の哲学の限界に対する諦観と、
それとは対照的に、哲学のアクチュアリティをとことん信じている火のような信念とが、
新たな戦場、つまり「美学」を設定する。
ごく初期の時分から、このプログラムを考えていたというのは、やっぱり天才だったんだな、と思う。
もう少し長く生きていてくれたら、ドゥルーズの強度の哲学とも異なった、
弁証法のアクチュアリティを指し示してくれたかもしれない。

というわけで、エドガー・ツィルゼル『科学と社会』を読みながら寝るとしようか。
就寝、3時半予定。

Don't you want me? (5th Apr. 2012)

/ 2012年4月6日金曜日 /

起床6時。終日晴天。
起きて顔を洗って、すぐに仕事。原稿3枚。

朝食、昨日飲みすぎ食べ過ぎで食べれそうにないので、結局わたしもまありも食べず。

お花見に使った食器を洗って拭いて、掃除と洗濯をして、玄関を掃いて、窓を拭いて、
コートの類をクリーニング屋さんに出して、銀行に行って、
コンビニの駐車場でホットのカフェオレ飲んで、
9時半に開店するお店にブーツ類をクリーニングに出して、スーパーで食材を買った。

ぬか漬を作ろうと思って、ぬか床を練る。5年ぶりくらいだろうか。
ぬか床ができるまで、1週間か10日くらいかかるだろう。
干し大根、干し人参もついでに作る。

合間に山頭火について調べもの。
昨日のお花見でRさんから「山頭火に桜の句がないのはどうして?」という質問を受けたので。

ちくま学芸文庫の山頭火句集には、調べるかぎり、桜の句はひとつしかなかった。

いつとなくさくらが咲いて逢うてわかれる

「白い花」というエッセイにはこうある。

私は木花より草花を愛する。春の花より秋の花が好きだ。西洋種はあまり好かない。野草を愛する。

昨夜はRさんには直感的にこう説明した。
行乞の旅をしていて顔をあげることが少なかった山頭火は、
見上げなくてはならない花よりは、野花のような下の方の視線に見える花をおのずから好んだのではないか。
遠からずと言ったところだろうか。
もうちょっと日記を読み込むと違う答えも見つかるかもしれない。
華やかな桜は、山頭火のコンプレックスを刺激したのかもしれない。

昼食、ひとりで。
よもぎ餅(昨夜のいただきもの、きな粉ときび砂糖かけて)を2個、ソイラテ。

午後、翻訳仕事。
徐々に終わりが見えてきた。

夕食、まありと。
鮭のムニエル、車麩と干し大根の煮もの、わかめとねぎの醤油炒め、
肉団子入りの豆乳スープ、ホタテと大根のおこわ。

干し大根の煮ものは煮干しでだしをとった。半日でも干すと、大根は甘みが増す。
ムニエルは醤油バター風味で。
日本酒、司牡丹を冷やでぐびぐび。

お昼仕込んでおいたイチゴのグラニテ、
Heimerssheimer Sonnenberg Silvaner Eiswein 2005。

佐藤初女『初女さんの料理』などを読みながらエウレカ待機。

おいしく食べて、そのことが心に深く残る。そのような料理を作りたい、とわたしはいつも考えています。でも、どこがその人の心に響くのか、わかりません。受ける人によって響き方は様々なので、十の工程で仕上がるものがあるとすれば、どの工程にも手を抜かないで、すべてに心をかけてやらなくてはいけないと思います。時間と手数をかけただけ心がこもっているからでしょうか、一つ一つをていねいにすると、不思議なぐらい伝わります。
だからわたしは、おしゃべりしながら料理をすることができません。おむすびをにぎるときも、一心にやっていますので、隣の話も聞こえないし、ほかのことを考える余裕はありません。そして味をみるということも大切にしています。レシピどおりに何グラムではなく、レシピはあくまで参考にして、自分の舌で確かめながら何回でも直して完成の味に近づけていきます。若いころ、食通のおじさんが「名コックは味を30回みるんだ」と教えてくれましたが、「なるほど、そのとおりだな」と思って、それをいまでも実践しているのです。ていねいに作ったものを人にお出しして「おいしい」と言われると、これほどうれしいことはありません。料理が大好きになりますよ。

料理とは、つねに他者との対峙である。
しかも、その対峙は単に観念的なものではなく、自身の感覚(味、匂い、色、食感、音)を駆使して、
歓待の場を作り出すというアクチュアルな行為であるということ。

『エウレカセブン』、41話~45話。
他者の深淵を超えるための恋。
わたしと同じではない誰かのために、その誰かになりたくて、自分にふるう暴力。

寝る前、アドルノの初期論文集を読む。
アドルノ的には「エッセー」と見なされるもの。

就寝、3時予定。

Cherry Blossom Girl (4th Apr. 2012)

/ 2012年4月5日木曜日 /

起床7時。
罪悪感を感じるほどの良い天気。
まありは友だちと待ち合わせとかで、ずいぶんはやく出かけた。

朝食、ひとりで。
リンゴ1個、ヨーグルト。粗食極まれり。

午前中、前日の6枚、推敲・脱稿。
4枚仕上げ脱稿まで。

昼食、ひとりで。
ブルーチーズのガレット、生クリームとイチゴのコンフィチュールのガレット、冷たいミルク。
ガレットは多めに焼いた。

午後から、お花見の準備をする。
料理の準備のほかに、子どもたちが来るというので、マフィンなど大量に焼いた。

17時半、Rさんの車でお花見会場へ。
先日の春の嵐の影響はほとんど受けていないようで、満開。
暖かった今日、追加で咲いた分もあるかもしれないが。
花見客は平日ということでぼちぼち。
わたしたちが、いちばん参加者が多い集団で、すでに半分ほど参加者がそろっている。
ほどなくまありとその連れたちもぞろぞろやってきた。
買い出しに行かせたり、設営やら料理の準備やらを指揮。

ことしまた花見の顔を合せけり  召波

我が家から提供したもの。
ガレットのトマトグラタン(ストウブですでに焼いたものをカバーつけて保温してきた)、
天ぷら(イカとネギのかきあげ、ゲソ、南瓜、さつま芋、蓮根、菜の花、アスパラ、茄子、半熟卵、干餅など)、
ローストポーク(ダッチオーブンで焼くだけ状態)、ザワークラウト、
おにぎりの具(おかか、肉みそ、高菜、実山椒佃煮、アサリの佃煮、ツナマヨ)
フレンチトースト(準備だけ)、ブルーベリーのマフィン。
家にあったクラシックラガー、浦霞「禅」純米吟醸。

しかし、人数が多くてこれだけでは足りず、買い出してきてもらった材料で以下を追加した。

手羽元とトマトの煮込み、海鮮(甘鯛、タコ、イカ、ホタテなど)の酒蒸し、
キャベツの丸ごと蒸し煮、かぼちゃのまるごと煮。
にんにくの丸揚げ、鰆、豚、ごぼうの天ぷらなど。
ストウブ、ダッチオーブンがフル稼働した。

Rさんは子どもがいるので餅つき、Sさんはカレー(グリーン、レッド、イエロー、普通の4種)、
Kさんは大量のおでん、Tさんは焼肉(シシカバブ、自家製のソーセージなども)、
Hさんはにんにくの効いた豚汁と大量の飯盒ご飯、
さすがU氏、いろんなお酒と缶詰を大量に(絶対赤字だろう)。

全部で50人以上はいたと思う(当初は30人ほどの予定だった)。
2歳児から63歳のじいちゃんまで。
行きずりの知らない人まで参加したり。
何度も学生たちに買い出しに走らせ、結局、0時過ぎまで飲み食いしていた。
友人の話、仕事の話、恋愛の話、結婚の話、人生の話、芸術の話など、いろんな話をする。
あした、話をしながら書いたメモを、ちゃんとテキストにまとめておかなくてはならない。

月、星、桜。

外にも出よ触るゝばかりに春の月  汀子

生きてゐるわれらに遠く春の星  汀子

天地変いのちのかぎり咲く桜  長谷川櫂

一片の落花見送る静かな  虚子

帰宅、1時過ぎ。
みなちゃんと家に帰りついたらしい。
まありは飲みすぎて撃沈。ただ、現場でぶっ倒れるようなことはなかった。

Cherry blossom girl
I'll always be there for you
That means no time to waste
Whenever there’s a chance
Cherry blossom girl

わたしもシャワーを浴びて寝るとする。
就寝、3時予定。

Das Ende aller Dinge (3rd Apr. 2012)

/ 2012年4月4日水曜日 /

起床6時半。嵐、雨と風。爆弾低気圧だと。台風のようだ。

春嵐屍は敢て出でゆくも  石田波郷

朝食、まありと。
オートミールの豆乳粥、蓮根と人参の黒胡麻和え。お粥には松の実、胡麻和えは昨夜の残り物。
午前中、まありは家にいるのだとのことなので家事に従事させる。

徐々に雨が落ち着く。
原稿6枚。明日、推敲。

昼食、ひとりで。
リンゴ1個、ヨーグルト、ダージリン。ヨーグルトにはイチゴジャムを添えた。

雨も上がったので散歩に出かける。
桜はだいぶ散ってしまった。ハクレン、シモクレンも。
帰りに厚揚げとお豆腐、豆乳を購入。

夕食、まありと。
鰆の蒸しもの香味ラー油かけ(白髪ねぎいっぱい)、厚揚げの素焼きおろししょうが添え、
かつぶし山盛り乗せたふだんそうのおひたし、ひじきとヤーコンのサラダ(オリーブオイルと塩だけ)、
里芋とネギのお味噌汁、ご飯。
お酒は金凰司牡丹・本醸造。端麗辛口。

日本酒を飲みながら、がっつり読書。
カント(篠田英雄・訳)『啓蒙とは何か 他四篇』再読。学生の頃以来。
とくに「万物の終り」を読み直そうと思ったわけだけれども。

・・・なぜ人間は、そもそも世界の終りなるものを思い設けるのだろうか。また世界の終りを考えるのはよいとしても、(なぜ人類の大部分は)恐怖を持ってこれを迎えようとするのだろうか。前者の理由は次の点にあるように思われる、すなわち――理性が人間に告げるところによると、世界が存続するのは理性的存在者がこの世界で彼等の存在の究極目的を達成する限りにおいてのみ価値を有する。それだのに、この目的が実現できないとなると、人間の創造そのものが、人間にとって意味のないものに思われる。それはあたかも大詰めのない、従ってまた筋の通った趣向のない芝居と一般だ、というものである。また後者は、人類はいま堕落状態にあるという件界に基づいている、しかもその堕落たるや救いようのないほどひどいものであるから、いっそ人類を終滅させるのが、それも恐るべき仕方で終らせるのが、最高の知慧と正義とにかなった(人類の大部分については)唯一の処置だという見解である。そこで末日の前兆(何か大事が起きるだろうという期待にそそられた想像力は、徴しや奇蹟を描き出さずにおくものでもない)も、すべて物怖ろしげなたぐいのものである。そこで一部の人達は、かかる前兆を不正の横行、富める者が奢侈逸楽をほしいままにして貧しい者に加える圧迫、押しなべて誠実と信仰とを喪失した世相、地上に隈なく勃発する残虐な戦争等に、――約言すれば、およそ彼等が前代未聞と思いなすような道徳的堕落や、また有りとある悪徳の急激な増大と、これに伴う夥しい害悪に認めている。するとまたほかの人達は、未曾有の天変地異――例えば地震、暴風雨、洪水、或いは彗星や流星の出現を、かかる前兆と見なしているのである。

凡そ人間の手を経た一切の物の終りは、たとえその場合の目的が善であるにせよ、所詮は愚昧である、それは――彼等が目的を達成するために用いる手段は、却って彼等の目的に反する、ということである。

もちろんフクシマに即した読みを考えていたのだけれど、
今後、さらに4号機が倒壊するなど最悪の事態が訪れたとしても、世界が終ったりしない。
呪われたまま人間は生き続けることになるのだ。
要するに、「生き延び」というのは、呪われたまま、決して呪いを解かないまま生きるということだ。
その方法を考えはじめていなくてはならぬ。

とするなら、終末論を徹底して捨てる必要がある。
「人間の手を経た一切の物の終り」は「所詮は愚昧である」。

ほかに、有岡利幸『桜(1)(2)』読了。これも名著。
就寝、1時半予定。

Prag (2nd Apr. 2012)

/ 2012年4月3日火曜日 /

起床6時。午前中晴天、徐々に曇り。暖かい日。
起きてすぐ洗濯してたたんだままにしていたシーツにアイロンをかける。

朝食、わたし、まあり、Yちゃんと3人で。
パプリカと新たまねぎのマリネ・ライ麦パンサンドイッチ、スクランブルエッグ、筍のカレースープ、アッサム。
8時半にはふたりとも外出していった。

昨日の2枚仕事、推敲、脱稿。
あとは翻訳仕事。
急に思いついて次作のプロットを多少手直ししたり。

昼食、ひとりで。
ライ麦パンのたまごグラタン、トマトのオーブン焼き。

午後も翻訳仕事。
子どもたちが駐車場で走り回って遊んでいるのを聞きながら、みっちり。
残り3分の1というところまできた。

夕方、疲れてキルミーベイベーの最終話を見る。
第1話からずっとつんつんしてたソーニャちゃんがはじめてデレてて、感動した。

夕食、まありと。
豚肉と蕗のしょうゆ炒め、蓮根と人参の黒胡麻和え、うどと生ハムのサラダ、
豆苗の豆乳スープ、錦糸たまごとひじきのお寿司。
プレミアムモルツ。

豆乳スープは上新粉でとろみをつけてみた。
葛とは違う食感の、コクを感じさせる重めの濃度になる。
蕗がおいしい。
まありも蕗や菜の花のようなちょっと苦い野菜もちゃんと食べてくれる。

モーツァルト、交響曲第38番ニ長調「プラハ」。
シューリヒト指揮、パリ・オペラ座管弦楽団、半世紀前の録音。
序奏が終わった後の第一楽章第一主題、祝祭的な華やかなアレグロのメロディは
何度聴いてもいきなりカタルシスを与えてくれる。
シューリヒトの指揮も、余計な感傷は排除してスピード重視でぐんぐん飛ばしていく。
すばやく、立ち止まることなく、ひたすらすばやく。野兎みたい。
喜びや悲しみが複層的に重なって、圧縮されたすさまじい演奏。
第一楽章の最終部コーダの高み、第三楽章ブレストの極端なスピードと儚い終結部。

Louis Jadotをちびちび飲みながら読書。
ずんずんずんずんずんずん読む。

豊田謙二『九州・沖縄 食文化の十字路』。
18世紀の薩摩藩は、外洋に面した海岸線が長く、
また離島を多く抱えていたために、漂着船や密航への対処を必要とし、
そのために、唐通事(中国語の通訳)を常時養成していた。
第8代藩主・島津重豪は、1771年に、幕府の許可を受けて江戸藩邸より出立し、長崎を視察した。
長崎滞在は2週間であった。

重豪は唐通事平野氏の別宅で饗応されたと『薩摩藩史』に記録されている。そん時の料理が卓袱料理である。
卓袱料理の食作法は普茶料理と同じであるが、卓袱は肉類を中心としたもので、当時の一般家庭では到底食すどころか、想像を絶する食卓の内容であったはずである。この時の献立は残っていないが、重豪はこの料理にも食指を動かし、1824年(文政7)年頃、江戸藩邸で卓袱料理で客をもてなした記録がある。その時の献立から一部を紹介しよう。
小菜(前菜のこと)が六種、さらに粕漬けなどの漬物、龍田餅、そして氷糖など。とくに砂糖は薩摩では特産だが珍味である。喫茶が入り、大菜が六種、最後に飯がつく。大菜はメインディッシュだが、食材は実に豪華である。カニの汁もの、ヒラメなどの刺身、筋豚、ゴマ豆腐、揚げた鯛などである。
島津家では重豪はもちろん、この斉宣も卓袱料理に凝ったようで、接待時に使ったようである。ということは、肉食の食材とその調理人を確保できていたわけである。
さらに、重豪は出島を訪ね、オランダ船ブルグ号に乗船、視察している。またここで、オランダ式の昼餐を快くいただいている。重豪はこの年1771年に、卓袱料理で中国を、ブルグ号でオランダを意識した。

このグルマンなさまはどうだろう。
重豪はいわゆる蘭癖大名の一人で、ローマ字の読み書き、オランダ語会話もできたという。
18世紀の日本において最大の「モダン」は中国の文物だったけれども、
薩摩では中国以外に、オランダにも「モダン」を濃厚に嗅ぎ取っていた。
食にもその志向がよくあらわれている。

引き続いて有岡利幸『桜』(ものと人間の文化史)を読む。
石黒正数せんせいの『木曜日のフルット』第2巻が近日発売というニュース。
楽しみ。

就寝、3時予定。

Anemone (1st Apr. 2012)

/ 2012年4月2日月曜日 /

昨夜は5時までFBで討論会という意味不明なことをしていたにも関わらず、起床は7時。
まことに良い天気。

朝食、まありと。
フレンチトースト(生姜はちみつソース)、レタスと茹で卵のサラダ、コーヒー。
食事をしながら校正を1本。

今日は家事をまありがやりたいと言うので(よくよく考えれば裏があったわけだが)任せて、散歩。
桜があっというまに5分咲き。いや、今日で8分咲きほどになるかもしれない。

梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや  薬師張氏福子

顔に似ぬほつ句も出でよはつ桜  芭蕉

家にひきこもっているうちに、すっかりこんな時節ではなくなっていた。
日に日に季節は進んでいく。
菜の花は満開。すずらん、芝桜、ラナンキュラス、そしてアネモネ。
書庫から本をいくらかぶら下げて帰る。

咲くを見し散るを見たとし桜かな  稲畑汀子

手入れよき庭が鈴蘭孤独にす  同

午前中、とにかく仕事。
校正を2つ、推敲・脱稿を1つ、2枚の原稿1つ(明日、推敲)。

昼食、まありが外出したのでひとりで。
菜の花とひじきのペンネ。
昨日のひじきの残りを使ってペペロンチーノっぽくした。

午後いっぱい、読書。
Bielle Ambreの封を切ってストレートでちびちび飲みながら。
積んでいたコミックやらラノベやらアリストテレス本やら、ごちゃまぜにして。

竹山博英『プリモ・レーヴィ』を読了。

レーヴィはある固定化された信念、イデオロギー、宗教を持っている方が、アウシュビッツで生きのびやすいことをよく知っていた。「何らかの信仰を持っているものたちは、権力の誘惑によりよく抵抗できた」と彼は書いている。この点については後で詳しく述べるが、レーヴィはあえてその道を選ばなかった。なぜ彼はそうしなかったのか。その理由は81~82ページに引用した、パンヴィッツ博士との会見の場面で述べられている。彼はナチの狂気の本質を、おぞましい反ユダヤ主義の根底にあるものを知りたかったのだ。アウシュヴィッツでの苦役を、たとえば神の試練としてしまったら、その原因と意味を理解するのは不可能になる。それゆえレーヴィはあえて宗教やイデオロギーに逃げることを、「隠れ家を求める」ことをしなかった。先入観のない、曇りない目で、アウシュヴィッツとは何か、その狂信主義の原因はどこにあるのか、考えたかったのだ。これは逃げ場のない、苦しい立場であったと想像できる。しかし彼はそうし続ける強い意志と勇気を持っていた。

311とそれに続くフクシマ以降、「生き延び」はごく身近な問題となった。
とくにフクシマによって。
たえず生き延びる努力をしなくてはいけないということ。
これを心的外傷という臨床用語で矮小化させてはならない。
むしろ、われわれが使う、世界と対峙するための武器であるはずの、言語に関する問題ではないのか。
サバイバーは、爆心地の如き、特異点の如き、そこにはもうなにも見出すことのできない点をめぐって、
その外周部にかろうじて座りこんで、その点から目を離せないでいる、しかしたしかに「いまここにいる」言語的な存在だ。
わたしたちは、いったいなにをどうすればいいのか。

まありが、Yちゃんを連れてくる。
2度目。泊まり、と。
三人で夕食。
かじきと新じゃがのハーブ焼き、鶏もも肉の塩焼き・男薬草塩風味、筍のグリル・山椒を山のようにのせて、
トマトとアスパラと春キャベツの温サラダ、さつまいもの豆乳スープ、菜の花ごはん。
Yちゃんはビールが飲めないので飲みやすい白ワインを出す。
「Chablis Les Forets 2006」、ちょっといいワイン。

ヒーターと七輪を出して、ベランダで夜桜を見ながら食べる。
七輪でクッキーを焼いてみたり。
デザートはリンゴとさつまいもの重ね焼きクランブル。

夜、ノールド・ヤング・ジュネヴァを飲みながら読書。
井上忠『根拠よりの挑戦』をようやく読了。

前半はパルメニデス、後半はアリストテレス。
後半が特に問題で、どこからどこまでがアリストテレスに即した読みなのか、
どこからが井上せんせい独自の読みなのか、いささか不分明。
しかも重厚な文体に酔ってしまうからたちが悪い。
ほかにせんせいの本を読まねばなんともいえぬ。ひじょうに難解。

就寝、1時半予定。

solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
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