起床、7時。終日、よい天気。
朝からシーツ類を洗濯して、昨日干しておいたシーツにはアイロンをかけた。
朝食、まありと。
シナモン多めのフレンチトースト、バナナのカラメルソテー、アッサム。
午前中、推敲作業。
昼食、ひとりで。
笹餅(黄粉ときび砂糖で)、茄子の味噌漬け、玄米茶。
午後、推敲続き。夕方にはなんとか終了。
響の薄いハイボールを飲んで、いい気分になって散歩に出かける。
蒲公英、連翹、菜の花、クコの花、水仙、パンジー、沈丁花、ハクモクレン、
彼岸桜、ナズナ、ハルジオン、母子草、ハコベ、山査子の花。
尼寺や彼岸桜は散りやすき 漱石
沈丁の香にひたりゐて過去は過去 上村占魚
たんぽゝと小声で言ひてみて一人 星野立子
よく見れば薺花さく垣ねかな 芭蕉
夕食、まありと(まありは自転車がパンクしたとかでちょっと遅くに帰宅した)。
きんぴら入りの豆腐ハンバーグ、ごぼうのきんぴら、フダンソウの白和え、
ポテトサラダ、レンコンのおろし汁、ご飯、ヱビスビール。
ポテトサラダはマッシュせずに角切りにする。
マヨだけでなく少しお酢と砂糖を足す。
おろし汁は味噌仕立て。
読書。エロマンガのほかにソローの『生き方の原則』など。
生計を立てるという大切な問題について、ほとんど、あるいはまったく思い浮かぶ書物がないのは驚くべきことです。私が言いたいのは、生計を立てることを、単に誠実で立派であるだけでなく、魅力的で光輝くするものにする方法についてです。というのも、もし生計を自ら立てるということがすばらしくないのなら、生きるということもそうでなくなってしまうからです。文学の方面を見ても、孤独な黙想にひたることをやめて、この根本的な問題に取り組むことがなかったのではないかと思われるほどです。それは、人々がこれまで経験してきたことにうんざりしてしまい語りたがらないということなのでしょうか。金銭的価値には限界があることを、創造主があれほど骨折ってわたしたちに教えようとしたのですが、どうやら私たちはきれいさっぱり見過ごしてしまうようです。生活の方法という重要なことについて、いわゆる改革者を含むあらゆる階層の人々が、それにまったく無関心だということは本当にふしぎなことです。彼らの生計の立て方は、相続だったり、稼いだり、盗んだりと、いろいろですが。この点では、社会という組織が私たちのために何かしてきたとは思いません。少なくともしたことを無にしてきました。私の体質には寒さと飢えのほうが、人々が寒さと飢えを防ぐためにとり入れたり勧めている方法などより、性に合っているようです。
盛口満氏の『シダの扉』。沖縄にはツクシが生えないと。知らなかった。
「そう言えば、山菜と七草っていっしょ?」
逆に、彼女たちから、そう聞き返された。言葉は知っているけれど、何が七草かわからない……と。
「だって、食べたことないし」
「七草粥のころ、給食でモズク雑炊とか出たことがあるけれど」
どうやら沖縄出身の学生たちにとって、七草というものは、海藻のモズクと混同されるほど、正体不明のものであるらしい。予想外の展開となったが、自分の中にある思い込みをあらわにするものである。七草なんて「あたりまえのもの」と思っていたけれど、「あたりまえ」は相対的なものであることに気づかされる。
就寝、2時半予定。
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