朝食なし。
わたしは朝から安物のワインを飲みながら、
朝から洗濯をして、掃除機をかけ、トイレとお風呂場とキッチンを磨いて、冷蔵庫を掃除して。
まありは二日酔いで部屋から出てこない。
昼食。ひとりで。
キャベツのオレキエッテ。
キャベツの水分だけで無水調理する。ブイヨンの類も入れないので、そのぶんキノコ類を入れるとだしが出る。
今日はシメジとマイタケ。
キャベツもオレキエッテもやわやわにしたほうがおいしい。
ビールやウィスキーを飲みながら、本を読んだり、レコードを聴いたり。
14時46分に、街中にサイレンが鳴り響いた。
1年前のことを考える。
夕方になってまありが部屋から出てきた。
夕食。まありとふたりで。
鶏のバリバリ揚げ、煮奴、根菜類の和風マリネ、大根と南関揚げのお味噌汁、大根ごはん。
マリネは、ペコリス、かぶ、人参、しいたけ、パプリカ。
大根ごはんは昆布だしで、お揚げも入れて炊く。
案の定、まありは鶏のから揚げを食べることができなかった。
響17年、「蘭亭」というもらいものの紹興酒を飲みながら、音楽や読書。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と第2番。若いころ(1950年代)のグールドの演奏。
とくに第2番はバーンスタインと手勢コロンビアSOとの演奏。
まさに疾走というべき演奏。
『歴史としての3.11』(河出書房新社)。、
最後の最後に、不可視委員会の『来たるべき蜂起』からあとがきが収載されててびっくりした。
社会のあらゆる局面において、すでに内戦が開始されていることを知るべきだろう。
もとより戦争とは、敵の殲滅と味方の保存の実行にほかならない。敵である社会はわれわれの抹殺を目論んでいるのであり、われわれは搾取や収奪の対象ですらない。だから放射能の拡散の放置は、けして国家の機能喪失によるものではない。それは社会からのわれわれに対する宣戦の布告である。この内戦=社会戦争においては、ひきこもりから軽犯罪まで、あらゆる情動による犯行は支持されなくてはならない。なぜ反原発という主題が人々を立ちあがらせているのか? 答えは明らかである。殺されたくないからである。そして誰が殺すのかを見きわめるのに多くの説明はいらない。反原発右翼や新自由民主主義者たちは、この内戦状態を社会的なものの防衛へとみちびこうとするだろう。叛乱は運動へと組織されていくだろう。だが、われわれは想い起こさなければならない。生権力と人種主義と戦争は同時に発生し、原子力権力をもってその極限とするといわれてきたことを。こうして内戦のなかに内戦が生まれ、社会戦争の分岐ははてしない。そこでは「政治は戦争の延長である」といっても「戦争は政治の延長である」といっても同じことである。
ほかにジャン・ドリュモーの厚い本、『ココロコネクト』シリーズなど。
まどマギの設定資料集がすごかった。これあと5冊出るのか・・・
就寝、2時半予定。
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