いきなり吉本隆明死去の報。
朝食ぬき。
まありには昨夜の本二鶴穴子棒寿司とお味噌汁の残り。
午前中、翻訳仕事。
昼食、ひとりで。
春キャベツと桜えびのお好み焼き。
午後、引き続き翻訳仕事。
15時すぎには推敲まで終わる。送信。
買い物。キンカン、蕨、土筆など。
さっそくキンカンを煮たり、蕨のアク抜きをしたり、レーズンとクルミのサブレを焼いたり。
夕食、ふたりで。
根菜と牛ひき肉の重ね蒸し、土筆の玉子とじ、蕨のマヨネーズ胡麻和え、
アスパラガスとからすみのサラダ、蕨のお味噌汁、ごはん。プレミアムモルツ。
どうもまありはわたしの部屋でくつろぐことを覚えたようで困る。
夜、わたしの書斎でぐだぐだしてるし、布団まで持ち込んでいる。
ただでさえ狭いし、仕事もできない。
夜はずっと読書。
ベルギーの作家ディミトリ・フェルフルストの『残念な日々』など。
秋のことだった。といってもぼくたちは年がら年中、酒を飲んでいたので、このようなぼくたちの人生の話をするときに季節は関係ないのだが。それでも木々の葉が枯れて散っていくとき――自然のすべてが芸術の法則に従い、人の気を惹いて死んでいくとき――には、死はよりいっそう、はっきり存在しているように思われる。その夜、木々がまるでチアリーダーのように頂をはためかす音が聞こえた。風は遠くから、気を滅入らせるような考えを運んできた。ちょうど家畜を屠る時期が終わったところで、手たちは自分がこの冬を越せること――また隙間風の吹く小屋に立つことを許されたこと――を知っていた。もっとも悲しげな牛たちは骨付き肉になってしまった子牛の運命を嘆いてサイレンのような声を上げていた。あの夜、パトカーの葵ライトがあれほど美しく寝室の壁紙に映ったのはそのためだ。まるで神々しい降り付け(コレオグラフィー)のように見えたのだ。)
あおやまシードルのドライ、冷凍庫でがちがちに冷やしたフィンランンディアなどをぐびぐび。
白秋18年の封を間違って切ってしまって飲んだり。
音楽もまともに聴かないというのは堕落である。
やはり誰かの体温を近くに感じていると、それだけで安心してしまってすぐにさぼってしまうのだろう、わたしは。
せめてもう少し本を読んで寝る。
就寝、2時予定。
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