Yucca gloriosa (17th May. 2012)

/ 2012年5月18日金曜日 /

起床、6時。終日、晴れ。

朝から散歩をする。
ユキノシタ、花言葉は「片意地」。

雪の下名のらで寒し花の色  越人
 
暗き日や花無き庭の雪の下  永井荷風

ほかにカタバミ、ツリガネヤナギ、マツバギク、ペチュニアなど。

大きな多肉性のつんつんした葉の庭木のような植物が、
巨大な神楽鈴みたいな釣鐘型の真っ白い花を咲かせていた。
よく見る植物だけど、名を知らない。
帰宅して調べてみると、アツバキミガヨランとある。
リュウゼツラン科イトラン属のユッカと呼ばれる植物の一種で北アメリカの植物。
「ユッカ」という名には聞き覚えがある。中学校の校庭に生えてた気がする。
用務員さんによく葉を刈られていた。

朝食、まありと。
紫キャベツのサンドイッチ、絹豆腐のサンドイッチ、アッサム。

紫キャベツは千切りにして塩もみ、レモン汁とオリーブオイル、粒マスタード。
絹豆腐のサンドイッチは、水切りしたお豆腐に塩、こしょう、オリーブオイルで調味しペーストに。
フムスみたいな感じでパンに塗る。

午前、メイン7枚。

昼食、ひとりで。
あまりお腹が空いていないので、鴨ハムとオレンジのサラダのみ。
サラダは鴨ハムと、日向夏、いんげん、きゅうり、レタス、ミニトマトのピクルス、
マスタード・ドレッシングで。

午後、メイン12枚。累計170枚。
集中する。

昼過ぎから強風。夏嵐と言ってよいほどの風。
ベランダのミニトマトの鉢が、また倒れてしまった。

末杉をほめてや風のかをる音  芭蕉
 
夏嵐机上の白紙飛び尽くす  正岡子規
 
れもん一つ緑の風の香に立てり  多田裕計
 
みどり児の香が先にくる青嵐  加藤知世子

子規の句はやや演出過剰だが、この青臭さが良いとも言えるかもしれない。

夕食、まありと。
豚肉のほうじ茶煮、きゅうりと塩サバの三杯酢和え、アボカド入りのポテトサラダ、
めかぶ汁、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはプレミアムモルツ。

豚の塊肉は水から茹でてアクをとり、ほうじ茶のパックを入れて40~50分煮る。
湯につけたまま、常温まで冷ます。
冷ましたら醤油やみりんで作った煮汁で煮て、さらに半日漬けておく。
食べる直前に温めて切り分ける。
ほうじ茶の香りが立って美味しい。
ほうじ茶の代わりにウーロン茶でもいい。

ポテトサラダは、じゃがいもが熱いうちにドレッシングを混ぜると酢がとんでじめじめしない。
冷めてからアボカドをいれる。
ドレッシングに醤油を隠し味に少々加えるとごはんと相性がよくなる。
お酒に合わせるには、胡椒を効かせたほうがいいと思う。

お風呂に入ったあと、トド撃ち。
Oせんせいに長文のメールなど。

今日はがっつり疲れた。
ひさしぶりに本を読まずに早寝しようかと思う。
就寝、1時半予定。

fekete rigó 04

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薬を飲む。
朝、昼、夜、就寝前。
日に四度。
ときどき頓服を飲む。

毎日、飲む。

薬は、わたしを覆う不可視できつく貼りついたヴェールを溶かし消したりはしてくれない。ただ、それに注意が向かないよう、脳を麻痺させる。ヴェールを別のヴェールで覆う。何に違和感を感じているのかわからなくさせ、わからないこともわからなくさせる。若い主治医によれば、それがわたしに与えられた「休息」だった。

白いの、ピンク色の、薄青色の、黄色いの、オレンジ色の、
丸いの、楕円状の、真ん中にすじが入ってるの、粉末なの、

いろんな薬をいろんな組み合わせて飲む。

薬は、長い時間を淡々と進めてくれた。
朝がきて昼がきて夜がくる。授業、休み時間、授業、休み時間、授業、休み時間、授業、休み時間。その繰り返しを。わたしにはそれが苦痛ではなかった。もうなにも考えていなかったし、何も感じなかった。昨日のことはほとんど覚えていない。記憶しているのは宿題くらい。クラスメイトとどんな話をしたかなんてぜんぜん覚えていない。主治医は二週間に一度わたしの様子を見る。いくらか質問をし、わたしがろくに答えられず、記憶があやふやで(つまり過去に拘泥できないってことだ)、自己分析なんてまったくできないのを確認して、にこっと笑う。「うん、落ち着いているみたいで安心したよ。お薬でだいぶ楽になっているみたいだね・・・」

春が過ぎ、梅雨が明け、夏になろうとしていた。

苦しくない。苦しくない。苦しくない。
何も苦しくない。

苦しいってどういうことかわからない。
苦しいってどういことだったっけ?

朝起きて、授業がはじまるギリギリまで寮の自分の部屋でまんじりとしている。だってみんなとぞろぞろ登校するなんて気持ちが悪いだろう。たとえ、寮から学校までたったの200mほどであってもだ。他人の声が気持ち悪い。自分の声も気持ち悪い。挨拶なんてほんとうに嫌だ。息をするのも嫌だ。彼らが吸って吐いた空気が、わたしの身体に入ってくるなんて考えるだけでぞっとする。おぞましい。
日の光は気持ち悪い。朝の匂いは気持ち悪い。太陽は、わたしの敵を明確にする。

わたしはだいぶ人が少なくなった道を、ひとり登校する。
いちど、靴を履き忘れて登校したことがあった。「靴を履き忘れて外出する」なんて経験をしたことがあるひと、どれだけいるだろう。靴も履かずに、靴下だけで学校に行こうと道を歩き始めたわたしを見つけた寮監は、心配して保健室まで付き添ってくれた。わたしは死にたくてたまらなくなった。それなのに、ちっとも苦しくない。

たいていHRは始まっている。わたしが後ろからぼんやり教室に入っても、担任はなにも言わない。出欠をとり、なにやら連絡事項を淡々と告げ、HRは終わる。そしてわたしのところにやってきていつも同じことを言う。「辛かったら言えよ、保健室行ってもいいから。」 わたしはうつむいてずっと机に入っている傷を眺めている。なにも考えることなんかない。悲しくもない。時間は淡々と過ぎていく。わたしは観察者。なにも見えないのに観察している。滑稽なことだ。しかもフラスコの中から、なのだ。

苦しくない。苦しくない。苦しくない。
何も苦しくない。

お腹が空かない、疲れない、眠くもならない。
空腹も疲労も眠気も、全部忘れてしまっていた。

たぶん両手両足をもがれても、きっと痛みを感じないのではないかと真剣に思っていた。薬を飲まなければいくらでも起きていられた。そのくせまったく疲れない。いや、疲れているんだろうけれど、それがわたしに届かない。

お腹も空かない。
日に一度、学食で食べる。昼食だ。

食事は苦痛だ。味がわからない。塩味、甘さ、辛さ、酸っぱさ、苦さ、歯ごたえ、柔らかさ、固さ、それぞれがそこにあり、それはわかるのに、味ではない。わかるだろうか、この屈辱。わたしは継母のベークドチーズケーキが食べたかった。高校生の頃、ずっと食べたかった。甘くてコクがあって、少ししょっぱみもあるケーキ。でも、きっといま食べても発泡スチロールを食べるのとたいしてかわらないだろうこともよくわかっていた。
それはイデアだ。祖母のお煮しめも、継母のチーズケーキも。その味は記憶にはあって想起できたけど、わたしにはもう手が届かない。

当然、わたしはガリガリに痩せていた。鉛筆のようだった。
手がかかる赤ん坊がいるのに、継母はいつも病院に付き添ってくれた。病院では気休めの点滴をする。点滴ほど不快なことはない。体内に得体のしれない液体が注がれることは恐怖だ。わたしはいつも、点滴のあいだ震えていた。ときどき吐いた。継母はいつもそばにいて、わたしが恐怖と戦っているあいだ、実家の話をしてくれる。長い話で、わたしはぜんぜんそれを聞いていない。覚えてもいない。それでも話してくれる。
そして帰り際に氷砂糖の袋をくれるのだ。これなら食べられるわよね、余計な味はしないものね、甘いだけだしね、だからいつも口に入れてて、お願いよ。だけどわたしは、氷砂糖を全部口のなかで溶かすことができない。糖分が身体に入ってくるのがわかるのが我慢できない。半分ほどなめたところで、きまって吐き捨ててしまう。

毎日、薬を飲む。飲み続ける。
効いているのか、効いていないのかもわからない。
苦しくはない。苦しいってどういうこと?

これだけ踠きながら、わたしはひとりでいた。
先生はどう接すればいいのかわからず当たり障りない会話をわたしに向けた(もちろんわたしはたいてい頷くだけだ)、クラスメイトはわたしを心配したり邪険にしたりしていた。わたしはそれをずっとただ眺めていた。ひとりで。

梅雨が明けたある日、夕方、渡り廊下で。
リトルミイみたいに頭のてっぺんにお団子を作った先生がわたしを呼び止めた。司書の先生だった。
「図書室の利用者カードは持ってますか?」
持っていたと思う。入学のときにもらったと思う。だけど捨ててしまった。使わないから。本は読めない。読んでも頭に入らない。
「そう・・・ じゃあ再発行しましょう。ほら、来なさい」
なんでわたしの名前を知っているのか。ああ、目立ってるからな、わたし。面倒だ、億劫だ、帰りたい、部屋でじっとしていたいんだよ・・・ でも、嫌だと言う気力もなかった。
図書室は渡り廊下の先の茶色の建物の半地下にある。階段を下りると、手を合わせ首を少しかしげた真っ白いマリア像。その左に図書室のドアがあった。観音開きの重いドア。

わたしの図書室。そこはわたしに用意された繭。
踠くわたしに与えられた「ほんとうの世界」。


Cheesy Beef And Cornbread Cobbler (16th May. 2012)

/ 2012年5月17日木曜日 /



起床、6時半。終日、晴れ。
虚構新聞の話でもちきりなんだけど、正直どうでもいい。
くだらないことを言えなくなった世の中なんてつまらないから、
わたしもくだらないことを言い続けるだけ。

まありがずいぶん早く出かけたので、朝食抜きで仕事をする。
校正1本、軽くトド撃ち。
その後メインディッシュの執筆。午前中9枚。
途中から、リビングでじゃがいもを茹でるのを気にしながら書く。

昼食、ひとりで。
シェパーズパイ風コーンブレッドコブラー、グリーンサラダ、グリンピースと豆乳のスープ(昨日の残り)。

コブラーは、冷凍していたミートソースにマッシュポテトを混ぜてフィリングを作って、
蓋になるビスケット生地はコーンブレッドを混ぜる。
熱いうちが美味しい。いや、正確に書くなら、冷めたら美味しくない。

キッチンとオーブンを拭きあげ、リビングでまた仕事。
粛々と、12枚。累計151枚。

夕方、買い物に出かける。
若葉、金雀枝。

肩凝りに効く葉桜の中にいる  山崎十生
 
柿若葉重なりもして透くみどり  富安風生
 
金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る  松本たかし

夕食、まありと。
牛肉とパプリカの豆鼓蒸し、さわらの米粉から揚げ、揚げ茄子とパプリカの中華風マリネ、
大根と長芋のサラダ、ふきのとうと若布のお味噌汁、きゅうりのぬか漬け、ごはん。
ビールはシメイ。
ふきのとうは、たぶん今年最後だろう。

お風呂に入って、少し仕事。
校正1本終わらせる。

バーボン(ウッドフォード・リザーヴ)のソーダ割りを飲みながら、読書や音楽など。
鶴ヶ谷真一『増補・書を読んで羊を失う』を途中まで。

和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。鳥が翼に風をはらむように、和本は閉じられた和紙のあいだに空気をつつみこんでいるからだろうか。昔、和本を商う書肆の店先で、主人が客に尋ねられた本を出すよう、書庫になっている二階に向かって言いつけると、丁稚がその本を取り出して二階から投げてよこした。本は座っている主人の面前に、まるで舞い降りたようにピタリと落ちてくる。それが書肆の丁稚の習得すべき手業だったのだという。かつては日々繰り返されたであろうそんな情景が目に浮かんでくる。
古い和本をひるがえしていると、ときおり本のあいだに木の葉のはさまれているのを見つけることがある。どれほど古いものなのか、手にした葉は乾ききって、もう元の色をとどめてはいないが、その輪郭を見れば、これは銀杏の葉、これは朝顔の葉だというように見分けはつく。
本に木の葉をさしはさんだりするのは、べつに珍しいことではない。名勝の地を訪れたおり、庭園に落ちているきれいな一葉をひろって、ささやかな記念としたり、落葉の時季に、まるで象牙に黄をにじませたような銀杏の葉や、窯変の色を思わせる紅葉の葉を手にして、読みさしの本のあいだにはさんだりするのはよくあることだろう。後日、たまたまひらいた本のあいだに、色褪せた一葉を見つけて、かすかになった記憶をしばしばたどったりすることもまた・・・。
そのとき手にしていた本は、しかし、風雅なこととするような本ではなかった。伊藤仁斎の『童子問』。学問の道筋と心構えを懇切をきわめて講じた、三巻からなる木版本だった。木版本の場合、本に記載された日時が、実際の刊行時期と異なることがあるそうだから、その本も実はそれほど古いものではないのかもしれないが、奥付にあたる最後の一丁には、宝永四年(一七〇七年)とあった。
行間や上部の欄外に、朱を交えた丁寧な細字で、おそらくは指定のためと思われる書き入れがなされてあり、はるか後世のおぼつかない後学には、それがことのほかありがたかった。その書き入れにはまた、もうひとつ別の効用もあった。読んでいると、何事もゆるがせにしない古人の精神が乗り移りでもしたものか、こちらもいくらか粛然とした気持ちになるのだ。
はじめ、木の葉のはさまれているのを目にしても、さして気にはならなかった。二つ折りにして綴じられた紙のすきまに、葉はひそませるようにしてはさみ込んである。しばらくするうちに、どうもそれが尋常ではないような気がしてきた。二、三丁めくると、必ずひそませてある葉が、薄い和紙を透かして見てとれる。とても何かのよすがに、などというものではない。いったい誰が何のためにと考えているうちに、次々と見つかるその黒ずんだ葉が、何かいとわしいものに思えてきて、見つけ次第、窓から投げ棄てていった。この葉は実に久方ぶりに、戸外を吹きすぎる風に舞ったことになる。
それにしても、なぜこんなふうに、葉を執拗にはさみ込んだりしたのだろうという疑問は、しばらく胸にわだかまっていたが、風に飛び去った木の葉のように、それもいつか忘れてしまった。もう何年も前のことだ。
ところが最近、たまたま荷風の随筆『冬の蠅』所収の「枯葉の記」を読んでいて、次のような一節にいたったとき、図らずもその疑問は氷解したのだった。
「古本を買つたり、虫干をしたりする時、本の間に銀杏や朝顔の葉のはさんだまゝに枯れてゐるのを見ることがある。いかなる人がいかなる時、蔵書を愛するのあまりになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として知らぬ人の手より、またさらに知らぬ世の、知らぬ人の手に渡つて行く。紙魚を防ぐ銀杏の葉、朝顔の葉は、枯れ干されて、紙魚と共に紙よりも軽く、窓の風に翻つて、行くところを知らない。」
そうか、あれは紙魚を防ぐためのものだったのか。ひとたび分かってみれば、そんな自明とも思われることになぜ気づかなかったのか、我ながら不思議なほどだった。まことに、ものを知らない人間には知る喜びがある。あの枯葉は、はるか昔、今よりもずっと貴重であった本をいとおしんだ心遣いの、かすかな痕跡であったのだ。丹念に木の葉を本のあいだにさしはさんでいた、さも克明そうな人物にたいして、親しみに似た感情を覚えはじめた。あのとき風に飛ばしてしまった枯葉をさえ、にわかに惜しむような気持になった。
 
「枯葉」

就寝、2時予定。



Manifeste de Monsieur Antipyrine (15th May. 2012)

/ 2012年5月16日水曜日 /

起床、6時。
午前中は雨が降ったりやんだり、午後から雨はあがる。

早朝、ひさしぶりに散歩。
花水木が終わり、山法師が咲いているのを見かける。
山法師の実は食べれるらしいけど、食べたことがない。

夏ごとに木の暮れまぎれ見過ぐしし花やまばうし白白しろし  鹿児島寿蔵
 
羽の旅の下に印象山法師  佐久間庭蔦

と、よその家の庭にユキノシタ。冷たい白。

花の名の夏なき庭や雪の下  乙由
 
つくばひに雨水溢れ鴨足草  柳澤東丁

朝食、まありと。
あじの干物、ゆでわらびと油揚げのお味噌汁、ピーマンのぬか漬け、ごはん。

そろそろと仕事。
昨日の原稿を推敲して脱稿。
校正仕事を2本。

昼食、ひとりで。
かぼちゃとドライトマトの温サラダ、グリンピースと豆乳のスープ。

午後、大ものを10枚。累計130枚。
プロットの見直し。
 
夕食、まありと。
ラムチョップソテーのにんにく味噌のせ、バター風味の蒸し野菜、
ラディッシュとじゃがいものお味噌汁、たたききゅうり、にんじんのぬか漬け、ごはん。
ビールはアサヒスーパードライ。

ラムはオリーブオイルを塗って塩胡椒はしないで焼く。
焼いた後でにんにく味噌をのせる。
蒸し野菜は玉ねぎ、アスパラ、キャベツ、じゃがいも、かぼちゃ。
発酵バターとちょっとお醤油。ごはんにも合う。

急に思いたって、クリームチーズとプロセスチーズをぬか床に仕込む。
クリームチーズはガーゼでくるんで、プロセスチーズはそのまま。

音楽を聴いたり、読書をしたり。
伊井直行『さして重要でない一日』、
ツァラ(塚原史・訳)『ムッシュー・アンチピリンの宣言』、
長沢栄治『アラブ革命の遺産』、など。

人間という、あの無限で無形の変容体を形成する混沌状態を、人びとはどうやって秩序づけようと望むのだろうか。「汝の隣人を愛せよ」[聖書]という原則は偽善だった。「汝自身を知れ」[ソクラテス]はユートピアだが、偽善よりは受け入れられる。なぜなら、それは意地悪さを含んでいるからだ。情けは無用だ。大虐殺のあとで、浄化された人類という希望がおれたちに残されている。おれはいつも自分のことについて語る。というのも、相手を説得したくないからだ。おれには、他人を自分の流れに引きずりこむ権利はない。おれは自分のあとについてくることを誰にも強制しない。天空の星の層へと矢のように上昇する喜び、あるいは死体と豊かな痙攣が満開の地下の坑道へと下降する悦びを知れば、誰もが自己流に自分の芸術が作れる。鍾乳石と同じことだ。鍾乳石をいたるところで探してみよう。苦痛で拡大したキリスト生誕の馬小屋の中に、野ウサギのように白い天使の眼の中に探してみよう。
 
ツァラ(塚原史・訳)「ダダ宣言1918」

日本酒、宝剣酒造「寳劔・純米酒」を冷やで。
肴はふろふき大根(昆布だしで)、ひいらぎのお煮つけ、自家製のいかの塩辛、きゅうりの古漬け。
〆にお煮つけでお茶漬けを1杯(2時過ぎ)。

暦のうえでは、5月は夏である。
そろそろ夜も短くなる。
時間に注意深く生きるとしよう。

夏の夜はふけゆくほどやなかるらむ暮るればやがて明くるしののめ  藤原兼宗

就寝、3時予定。

OTT Manifesto (14th May. 2012)

/ 2012年5月15日火曜日 /

起床、6時半。終日雨が降ったりやんだり。
すぐに仕事、2枚。明日推敲。

朝食、まありと。
パンバニーヤ、アッサム。

パンバニーヤはフィセルで作ったサンド。
フィセルにエキストラバージンオイルを塗って、水菜、レタス、
素揚げした茄子、乱切りトマト、アンチョビをはさむ。

居間を掃除して、淡々と仕事。

昼食、ひとりで。
バタートースト、スクランブルエッグ、きゅうりの生クリーム和え。

きゅうりの生クリーム和えはイギリス料理。
塩もみしたきゅうりの乱切りを生クリームと粒マスタードで和える。

午後からスカイプ会議を2時間ばかり。
いろいろ突っ込まれて泣きそうになる。

はなはだしく疲れて、会議のあとシャワーを浴びたり。
またすぐに仕事。
本日の収穫は、2枚(推敲待ち)+8枚(累計120枚)。
17時半には筆を擱く。


雨がよく降る。この時期の雨を「卯の花腐し」という。


むら消し春もかかりき卯花の雪をくたしてふれる雨かな  正徹
 
夕づけて水に音なく降る雨は卯花くたす初めなりけり  秋成



夕食、まありと。
鯖のにんにく竜田揚げ、阿茶蘭漬、大根のなます、茹で絹さやの黒ゴマ和え、
ピーマンとみょうがのぬか漬、わかめのお味噌汁、ごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

阿茶蘭漬は鰯で。
鰯を酢に漬けるのは10分ほどでいい。
酢で煮えてしまうとおいしくない。
茹でてあく抜きした牛蒡はもうすこし長く漬けたほうが味がなじむ。
なますには乾煎りしたじゃこを。

少し日本酒。悦凱陣・山廃純米を冷やで。
肴はピーマンのぬか漬け、烏賊の塩辛(手作り)。

長沢栄治氏の『アラブ革命の遺産』という大著(606ページ!)を読みはじめる。
いきなりしょっぱなからユダヤ系エジプト人のマルクス主義者
アハマド・サーディク・サアドからはじまるという構成でしびれる。
サアドのように、
境界(イスラームとユダヤ、エジプトとパレスチナ、共産主義と資本主義、行動と研究)に生きたひとというのは、
まさに極端な「振れ幅」のなかで生をデザインするべく苦闘したわけで、
革命に興味がないとしても、研究者や表現者は知っておいた方がいいひとじゃなかろうか。
そんなことを考える。

突然だが、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト提督のこの金言は
いつも心にとどめておきたいものだ。曰く、

人を褒めるときは大きな声で、悪口を言うときにはより大きな声で。

就寝、3時予定。

Vuur en Beschaving (13th May. 2012)

/ 2012年5月14日月曜日 /

起床、8時。終日晴れ。母の日。
アニメを見てぼんやり

朝食、まありと。
厚焼き玉子、大根のお味噌汁、みょうがのぬか漬け、塩おにぎり。

少しトドを撃ち、冷蔵庫やキッチンの掃除をする。
きのこ帝国『渦になる』を音量をあげてかけながら掃除をしていると、
買い物から帰ってきたまありが絶句しながら聴いていた。

継母から電話。ひさしぶりに長話をする。
母の日のプレゼントが届いた、と
わたしからは古いバカラのワイングラス。
まありからはお花。
夏に遊びに来たいとのこと。
いつでも来ていいよ、と伝える。

昼食、まありと。
上海風の海鮮焼きそば。
烏賊、海老、帆立。焼きそばは香港蝦麺。

仕事をしながら、BSでリマスター版の「東京物語」など。
画質、音質ともにものすごく向上してて驚く。

先日の4枚、脱稿。
新たに6枚書き、推敲、脱稿。
若干、後半部のプロット修正を構想するが、どうだろう。
しばらく寝かせるほかないか。

楽しみにしていた「ヤマロク醤油」着。
小豆島のお醤油。完全杉樽仕込み。

夕方、まありが友だちを2名連れてくる。
肉を買ってきたので4人で夕食。
焼肉(七輪)、里芋とたらこの煮物、野菜と鶏肉の生春巻、小松菜の辛子醤油和え、大根のぬか漬け、ごはん。
肴に、烏賊のソルベ、烏賊のゲソ焼き(わさびで)、鶏皮の炙り(ポン酢と柚子胡椒)、葱味噌焼き。

飲み物は、サッポロ黒ラベル、ギネス、シメイ。
八木酒造「ひとつき半むろか」のお湯割り。

春巻の具材は、ささ身、グリーンアスパラ、アルファルファ、クレソン、
香菜、水菜、白髪葱、スペアミント。
ソルベは烏賊の肝に多めの塩をふり、すぐにラップして凍らせる。
半解凍で輪切りにし、少しずつ食べる。

卯の花に烟かゝるや夕炊  成美

夏めきて人顔見ゆるゆうべかな  成美

だらだらと飲み食いしながら、遅くまで読書をしたり。
ヨハン・ハウツブロム『火と文明化』など。
ちょっと散漫とした印象の本だが、現在の状況の背景にあるものはここにすでに指摘されている。

薪ばかりでなく、蒸気にも代わる新しいエネルギー源の主要な利点は、それがもっと柔軟に適応できることである。燃料は薪や石炭よりも運びやすく、分配しやすい。さらに、燃焼の調節ももっと正確にできる。必要とされる技術上の装置があれば、ガス、石油、電気は非常に均一で正確に管理できるエネルギーの供給を約束する。電気にはさらにそれが受け取られる所でまったく「清潔である」という利点がある。火の使用に関連するほとんどすべての面倒で厄介な仕事、つまり、煙を除去したり、燃料を蓄えたり、火の面倒を見たりする仕事は、電気の消費者にはもはや不必要である。火の危険は完全に取り除かれたわけではないが、大いに減じられている。今日、人々は、簡単な動作を少しするだけで、しかも危険が最小限の状態で、高度に集中化されたエネルギーを大量に利用することができるのである。
農業であれ、工業であれ、交通や運輸であれ、また家庭の仕事や余暇であれ、このことは、生活のすべての領域に当てはまる。あらゆる所で、極めて少ない肉体的努力でもって大量のエネルギーを流通させることが可能である。その結果は、多くの点で生活をより快適にし、物理的な過程が習得されうるという感情を高め、同時に独立の幻想を生み出すこととなる。
それは明らかに幻想である。人々が、ガソリン・エンジン、バッテリー、電気回路への接続、ガスの本管といったかたちでエネルギーが利用できるかどうかにかかわらず、どの場合でも、人々が複雑、かつ広範な社会的相互依存のネットワークの一部になっているがゆえに、それが可能になるのである。供給の経路が機能しているかぎり、また、人々が経済的要求に応じることができるかぎり、かれらは全体的配置についてそれほど心配する必要はない。ところが、諸条件のいずれかに何か誤りが生じれば、かれらはただちにそれに直面するのである。
このようなぐあいに、新しいエネルギー源の使用によって、常に火の支配に特徴的であった傾向が明らかに継続されるのである。自然の諸力への依存はあまり直接的ではなくなり(それは、依存度が下がったということではない)、同時に文化的、社会的資源への依存が増大することになった。エネルギーの供給を常に可能にするには複雑な技術上、組織上の装置が必要とされる。この装置のほとんどは産業社会の「舞台裏」に置かれ、普通の消費者には見えない。

火の慣用化は人間の生活をより快適、かつより複雑にしてしまった。破壊的な潜在力、燃料へのやむことのない欲求を備えたあの偏在する火は、次々に続いていく段階で異なった様相を呈してきた社会に絶え間なく圧力を加えるのである。専門化や組織化における発展のせいで、現代の産業社会で生きるほとんどの人間はこうした欲求のいくつかをほとんど感じていない。しかし、これは、それらがなくなったということを意味しているのではない。どの世代も火にいかに対処するか新たに学ばなければならない。どの世代も前任者と同じ技術を習得する必要はないが、その成員は火を持つ集団のなかで暮らす一般的な能力を獲得しなければならない。これは、今日の社会においては依然として、すべての人間は火そのものについての基本的な知識をいくらか獲得しなければならないということ、また――これはさらに重要なことではあるが――すべての人間は火の制度の社会組織に参加するようになることを意味している。そして、そのような制度をいくぶん理解することも望まれるのである。

まありの友人たちは泊まるということで、かしましかった。
いつもは静かな家なのでこういう日もよかろう。

就寝、3時予定。

Infinite Lucifer (12th May. 2012)

/ 2012年5月13日日曜日 /

2週間ちかく、精神的に絶不調になったり風邪を引いたりしてバイオリズムが落ちてた。
よくわからん仕事のたてこみに忙殺されたり、
あげくのはてには先日から東京におったわけだけれども、全部割愛する。

今日は東京2日目。
起床、5時半。終日晴れ。

すでに朝から社畜なKMからメールが来ていて萎えつつ返信し身支度。
7時半には迎えがきて移動する。
渋谷のスタバで朝食をとりながらこの日の打ち合わせ&現在進行中な仕事の打ち合わせ。
ビジネスマンばかり。

開店と同時に渋谷J書店。次にK書店。
なんかいろいろやらされるのでニコニコしながら言われたとおりにやる。

時間が少し開いたので、超急いでFさんところへ陶器を見に。
クリスチャンヌ・ペロションのピンク色の水差し、田鶴浜守人の粉引大皿と蓋物など。
近所のレコ屋Cで数枚レコードやCD。

神田へ。編集についての打ち合わせ。
埼玉屋小梅の水ようかんと最中が用意してあって、昼食を食べてなかったのでありがたかった。
1時間ほどの打ち合わせののち、上野へ。T書店、A書店。
これで仕事も終了。上野うさぎやでお土産の喜作羊羹(欲張って3種、練り、小倉、抹茶、全部買った。
と、小腹がすいていたのでKMと焼き菓子を買い食いする。
万寿鏡と桃山(前者は「万歳」の焼印が押してあるどら焼き、後者は黄身餡の饅頭)を半分こずつ。

羽田まで送ってもらいながら編集について相談。
ぎりぎりまでターミナルで話し込む。
羽田から福岡。
飛行機のなかでも仕事。4枚。明日推敲予定。
重い荷物を抱えて、帰宅は21時。

まありはお出かけしてるらしく誰もおらず。
(結局、23時頃、酔っぱらって帰ってきた。あいかわらず自由なひとだ)
焼酎を飲みながら、音楽を聴いたり読書をしたり。

ひさしぶりにもふ@氏のボカロ曲を発見する。


カラ カラ カラ 鐘の音に
キミ キミ キミ は微笑み
ボク ボク ボク 手繰り寄せ
キス キス キス キス
 
ハナ ハナ ハナ でつくった
アイ アイ アイ の指輪を
イマ イマ イマ その指に
君 僕 今
 
キミキミキミキミ 君は目を閉じて
タダタダタダタダ ただ笑っていて
デモデモデモデモ でも君の鼓動が
ナイナイナイナイ ないないないない
 
テトテトテトテト 手と手を合わせて
キミキミキミキミ 君を抱き締めて
ポタポタポタポタ 僕のなにかが
ポタポタポタポタ ぽたぽたぽたぽた

就寝、4時半予定

Il tempo invecchia in fretta (1st May. 2012)

/ 2012年5月2日水曜日 /

起床、6時。雨がふったりやんだりな一日。
今日は八十八夜である。

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅の笠」
 
日和つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の茶にならぬ」

朝食、まありと。
煮玉子、キャベツのごましそ和え、こんにゃくのきんぴら、
油揚げと菜の花のお味噌汁、にんじんのぬか漬け、ごはん。

朝からクッキーを焼いて(生地をシート状に冷凍していたものを、シートのまんま焼いた)
食べながらのお仕事。
午前中、6枚。推敲、脱稿。

昼食、ひとりで。
ソフトフランスパンのサンドイッチ、コーヒー(マンダリン)。
サンドイッチの具は、アボカドのスパニッシュオムレツ、サニーレタス、発酵バター、マヨネーズ。

午後は大仕事のほう。
うんうん唸って8枚。計55枚。
明日はここまでを推敲してみようと思う。
だいぶいじるかもしれない。

夕食、まありと。
豚肩肉の蒸し物(黒ごまペーストのせ)、沖縄風の卯の花、筍と空豆の茶わん蒸し、
もずくと豆腐のお味噌汁、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

豚肩肉の蒸し物は「みぬだる」といって東道盆に出される料理。
黒ゴマのペーストをお肉のうえに乗せて蒸す。
沖縄風の卯の花も蒸して作る。塩味主体なので白い。筍を入れた。
アンド茶わん蒸し。
せっかく蒸し器を出したので、蒸し料理ばかり作った。
時間がかかった。

ワイン、「原茂ヴィンテージ甲州シュールリー2009」。
辛口すっきり、しかも安い。
肴はミスカンツァ。たんぽぽとクレソンのサラダ。
粗く砕いたパルミジャーノ・レッジャーノ、レモン汁、EVO、塩と胡椒。

たんぽぽのサラダの話野の話  素十

読書、バタイユ『宗教の理論』など。
このあたりのバタイユの思考は、科学観の批判的分析を可能にするだろうか。

帝国への組織化へと(つまり普遍性の組織化へと)進む運動のうちで、操作的な諸形態が重要となっていくにつれて、また製造の技術が発達していくにつれて、注意の一部分は再び事物たちの世界のほうへ連れ戻された。そして主として事物たちのほうへと向いた注意においてこそ、諸種の判断の一般的な自由とか矛盾などが可能となったのである。人間の思考は、神話的次元が及ぼす堅固な限定を逃れたのであり、それで客体たちが明晰、かつ判明な認識の用具が練り上げられていくにつれて、その用具を内奥次元の認識のために用いることが試みられるようになった。こういうわけで、明晰な意識には、ある種雑種的な内容が与えられたのである。内奥次元とは根底からして非現実的なのだが、その恣意的な神話的諸表象を脚色して、客体たちについての意識がそうであるような論理的な形態にうまく適合するよう按配したのである。それ以降、内奥次元は認識のすべての領域に、志向性をおびた諸決定を導入したのであるけれども、しかしそうした決定は内奥次元が内奥的なままとどまることができるような妥協の産物を表しているのである。こうして意識が言表することはそのように雑種的な性格を示していたが、学問=科学が少しずつそれを逃れるようになったのは、内奥界と現実界との分離が完了した状態になってのみなのである。しかしながら科学はその威力が確実になっていくにつれて、人間を人間自身から完全に遠ざけてしまい、科学者という種のほうに、お互いに競い合いながら、しかも一方が他方に完全に服従することなく発展していくと、ついにはまったく完全に現実的な世界と、同じく完全に現実的な人間が創設されるに至る。そしてそういう現実的な世界と人間を前にしては、内奥の次元が自らを表象しようとしても、それはただえんえんと続く口ごもりによってしか表象されないのである。このような口ごもりは、それがまだ一般的に現実原則に向かって内奥性原則を対立させる能力を持つという点で、並々ならぬ力を維持してはいるのだが、しかしそうした口ごもりを〈善意〉が迎え入れようとしても、その善意は、どんなときでも失望し、落胆するほかないという徒労感を刻印されている。というのも口ごもった声は、なんと柔弱そうに思えることだろう! そうした声の横滑りは、現実を明確に表現するとなんと無力きわまりないものだろう! 権威も正統性も全面的に事物の側に、生産の側に、生産された事物についての意識の側にある。その残余は全て虚偽であり、混沌である。

アントニオ・タブッキの『時は老いをいそぐ』も読了。
ものすごい眠気。

就寝、1時予定。

Rain on me (30th Apr. 2012)

/ 2012年5月1日火曜日 /

起床、6時。雨の朝。
早朝早々に煮玉子を煮て、昨日買ってきたぬかをぬか床に足す。

ようやく「偽物語」BD1巻、裏音声(千石撫子×阿良々木月火)を聞く。
つぎに副音声(戦場ヶ原ひたぎ×羽川翼)を聞いたら、いきなりガハラさんに怒られた。
「裏音声から聞いてるロリコンはいないでしょうね」

朝食、まありと。
スクランブルエッグ(プレーン)、トースト(自家製ジャムを2種、発酵バター)、
ヨーグルト、アッサム。

パンにバタたつぷりつけて春惜しむ  久保田万太郎

雨を見ながら仕事。
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ
 
――ぽつり落ちた雨だれと うつむいた傘
     色の変わるシグナルが 遠く霞んで―― 
 
透きとおる 風景を映し出し
ささやくように 揺れてる雫 
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ 
 
――ぷつり途切れた電話の なつかしい声 
  道の端で咲く花は 雨に打たれて――
 
過ぎていく 風景の切れはしを
鏡のように 空に映すよ 
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ  
 
Rain on me キラキラ 光零れて
誰かの代わりに 泣いている空
Rain on me キラキラ わたしのセカイ  
優しく包まれ 洗われてくよ
 
―――この雨に

昼食、ひとりで。
春ごぼうの豆乳ポタージュ(ごぼう、玉ねぎ、じゃがいも、しめじ)、
トースト(ジャムを2種)、コーヒー。
コーヒーはHさんところのフレンチロースト・ブレンド。
こないだ作ったジャムは、これでおしまい。

午後もひたすら夕方まで書く。
時間を忘れて書く。
正直言えば、書いている時間はテキストにひたっている快感もあるのだけれど、
我に返ると疲労困憊している。
これはいつものこと。

夕食。ちらし寿司(きゅうりと大葉、みょうが、筍)、鯛のレモンサラダ、
こんにゃくのきんぴら、鯛と焼きねぎの潮汁、にんじんのぬか漬け、ご飯。
ビールはシメイ。

鯛は軽く塩をして、レモン汁を振りかけて、30分冷蔵庫でマリネ。
それに赤玉ねぎ、トマト、ラディッシュのスライス。エクストラ・ヴァージン・オイル。
こんにゃくは手作りの玉こんにゃくで作った。

お風呂に入った後、もう少し書こうと思ったんだけれど、ぜんぜん筆が進まず。
結局、お風呂からあがって2枚しか書けなかった。
今日は17枚。トータル47枚。

ただ、意外とこのやり方はわたしには相性がいいのかもしれない。
いつもより楽な気がする。
日ごろの蓄積が必要なので、すぐに弾切れになりそうな気もするし、
これが質につながるかはわからない。

就寝、3時半予定。

Boy, Girl and the Story of Sagrada (29th Apr. 2012)

/ 2012年4月30日月曜日 /

起床、6時半。晴天のち曇り。
シーツを洗濯、掃除、キッチンを朝から磨く。
連休早々、関越道で大きな高速バス事故のニュース。

朝食、まありと。
鯵のひらき、春キャベツと厚揚げの煮物(ゆずごしょう)、菜の花のぬか漬け、塩むすび。

まありが外出したので、午前中から夕方まで、昼食も摂らずに仕事をする。
30枚ほど書く。
スタートしてはまずまず。

夕方、買い物へ。
子どもたちが公園で遊んでいる。
わさわさと吹きぬけていく風、カラスたち。もう晩春。

顔じゅうを蒲公英にして笑うなり  橋聞石
 
ゆさゆさと春が行くぞよ野辺の草  一茶
 
若草に口ばしぬぐふ烏かな  凡兆
 
行く先を惜しみし春の明日よりは来にしかたにもなりぬべきかな  凡河内躬恒

ストラヴィンスキーの「火の鳥」を聴きながら、肉をオーブンで焼いたり、シーツにアイロンをあてたり。
「火の鳥」はドラティ指揮デトロイトSO、82年録音。
これは1911年全曲版。19年版より好き
大胆な着想、強烈なリズム、踊るような色彩、斬新で緻密な書法。
若いストラヴィンスキーの野心を感じる傑作。

夕食、まありと。
ミートローフ、蕗とかりかりベーコンのオリーブオイル炒め、春キャベツとトマトの蒸し煮(キャベツを半玉)、
野菜のスープ(キャベツの芯、にんじん、たまねぎ)、バゲット。
ビールはサッポロ黒ラベル。

ミートローフは成形するときに上に一筋くぼみを作っておいて
そこにサラダオイルを注いでおく。
そうすると焼いている途中も油分が肉全体に行きわたって均等に焼けるし、
ぱさぱさした仕上がりにならない。
焼きあがったらホイルをかぶせてしばらく落ち着かせると、
切るときに形が崩れないし肉汁も逃げない。

お風呂に入ってワイン。
「Baron de Lestac 2008」。1000円くらいだった気がする。ふつうのワイン。
パリのタパスバーやオードブルバーで飲むようなワイン、と言ったらいいのか。
安ワインを飲みながら、60年代の古いガレージロックの7インチを数枚、消化。

読書、数冊。
為近磨巨登『書道用紙とにじみ』という本に蒙を啓かれる。

十数年前のことになりますが、墨の研究のため実験をしているとき、あることに気がつきました。
それは墨汁の一滴を画仙紙に落としたとき、濃墨の場合は墨だけが広がりますが、淡墨だけにすると墨のにじみの外側に水のにじみができたことです。これに興味を持ちその理由が知りたくていろいろ文献を調べました。
紙の研究者は「墨のにじみは、繊維と繊維の間の細孔(空隙)が毛細管の役目をし、墨汁が毛細管現象によって、連続した空隙をどの方向にも浸透する」と書いています。にじみは墨汁が繊維と繊維の間の空隙を通ることによってできることはわかりますが、水だけがにじむ現象については書かれていません。
墨の研究者は「墨汁が滲むのは、炭の粒子が微小だからである」とか「墨の粒子が小さいほど滲みやすい墨になり、墨の粒子が大きくなるほど線の輪郭が明瞭に現れる」と書いていますが、これも水にじみのことについては触れられていません。結局、文献では筆者が望んだような答は見つかりませんでした。
そこでまず思いついたことは、墨汁が毛細管を通るとき、墨粒子が重いため水だけが先に進むのではないかということです。ところがコロイドの本では、墨汁はコロイド(後述)であり特別なことがないかぎり墨と水に分離することはないと書いています。水にじみ現象の理由はわからないままでしたが、このことはその後、墨や硯のことを勉強しているときも頭から離れることはありませんでした。
そんなとき、ふと一つの考えが浮かんできました。それは墨汁は繊維間隙を通るが、一部の水は繊維の中を通っているのではないかということです。これなら水と墨汁が分かれて、水にじみがでいることが不自然でなくなるからです。

この仮説を検証するために、88歳の筆者はこつこつと研究していく。
そのさまが実に琴線に触れる。
知の歓びはどんなに歳をとっても関係ない。良書。

タブッキ『時は老いをいそぐ』をちびちび読む。
ハイランドパーク18年をロックで。

就寝、3時予定。

solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
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