起床、6時半。終日、晴れ。
虚構新聞の話でもちきりなんだけど、正直どうでもいい。
くだらないことを言えなくなった世の中なんてつまらないから、
わたしもくだらないことを言い続けるだけ。
まありがずいぶん早く出かけたので、朝食抜きで仕事をする。
校正1本、軽くトド撃ち。
その後メインディッシュの執筆。午前中9枚。
途中から、リビングでじゃがいもを茹でるのを気にしながら書く。
昼食、ひとりで。
シェパーズパイ風コーンブレッドコブラー、グリーンサラダ、グリンピースと豆乳のスープ(昨日の残り)。
コブラーは、冷凍していたミートソースにマッシュポテトを混ぜてフィリングを作って、
蓋になるビスケット生地はコーンブレッドを混ぜる。
熱いうちが美味しい。いや、正確に書くなら、冷めたら美味しくない。
キッチンとオーブンを拭きあげ、リビングでまた仕事。
粛々と、12枚。累計151枚。
夕方、買い物に出かける。
若葉、金雀枝。
肩凝りに効く葉桜の中にいる 山崎十生
柿若葉重なりもして透くみどり 富安風生
金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る 松本たかし
夕食、まありと。
牛肉とパプリカの豆鼓蒸し、さわらの米粉から揚げ、揚げ茄子とパプリカの中華風マリネ、
大根と長芋のサラダ、ふきのとうと若布のお味噌汁、きゅうりのぬか漬け、ごはん。
ビールはシメイ。
ふきのとうは、たぶん今年最後だろう。
お風呂に入って、少し仕事。
校正1本終わらせる。
バーボン(ウッドフォード・リザーヴ)のソーダ割りを飲みながら、読書や音楽など。
鶴ヶ谷真一『増補・書を読んで羊を失う』を途中まで。
和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。鳥が翼に風をはらむように、和本は閉じられた和紙のあいだに空気をつつみこんでいるからだろうか。昔、和本を商う書肆の店先で、主人が客に尋ねられた本を出すよう、書庫になっている二階に向かって言いつけると、丁稚がその本を取り出して二階から投げてよこした。本は座っている主人の面前に、まるで舞い降りたようにピタリと落ちてくる。それが書肆の丁稚の習得すべき手業だったのだという。かつては日々繰り返されたであろうそんな情景が目に浮かんでくる。
古い和本をひるがえしていると、ときおり本のあいだに木の葉のはさまれているのを見つけることがある。どれほど古いものなのか、手にした葉は乾ききって、もう元の色をとどめてはいないが、その輪郭を見れば、これは銀杏の葉、これは朝顔の葉だというように見分けはつく。
本に木の葉をさしはさんだりするのは、べつに珍しいことではない。名勝の地を訪れたおり、庭園に落ちているきれいな一葉をひろって、ささやかな記念としたり、落葉の時季に、まるで象牙に黄をにじませたような銀杏の葉や、窯変の色を思わせる紅葉の葉を手にして、読みさしの本のあいだにはさんだりするのはよくあることだろう。後日、たまたまひらいた本のあいだに、色褪せた一葉を見つけて、かすかになった記憶をしばしばたどったりすることもまた・・・。
そのとき手にしていた本は、しかし、風雅なこととするような本ではなかった。伊藤仁斎の『童子問』。学問の道筋と心構えを懇切をきわめて講じた、三巻からなる木版本だった。木版本の場合、本に記載された日時が、実際の刊行時期と異なることがあるそうだから、その本も実はそれほど古いものではないのかもしれないが、奥付にあたる最後の一丁には、宝永四年(一七〇七年)とあった。
行間や上部の欄外に、朱を交えた丁寧な細字で、おそらくは指定のためと思われる書き入れがなされてあり、はるか後世のおぼつかない後学には、それがことのほかありがたかった。その書き入れにはまた、もうひとつ別の効用もあった。読んでいると、何事もゆるがせにしない古人の精神が乗り移りでもしたものか、こちらもいくらか粛然とした気持ちになるのだ。
はじめ、木の葉のはさまれているのを目にしても、さして気にはならなかった。二つ折りにして綴じられた紙のすきまに、葉はひそませるようにしてはさみ込んである。しばらくするうちに、どうもそれが尋常ではないような気がしてきた。二、三丁めくると、必ずひそませてある葉が、薄い和紙を透かして見てとれる。とても何かのよすがに、などというものではない。いったい誰が何のためにと考えているうちに、次々と見つかるその黒ずんだ葉が、何かいとわしいものに思えてきて、見つけ次第、窓から投げ棄てていった。この葉は実に久方ぶりに、戸外を吹きすぎる風に舞ったことになる。
それにしても、なぜこんなふうに、葉を執拗にはさみ込んだりしたのだろうという疑問は、しばらく胸にわだかまっていたが、風に飛び去った木の葉のように、それもいつか忘れてしまった。もう何年も前のことだ。
ところが最近、たまたま荷風の随筆『冬の蠅』所収の「枯葉の記」を読んでいて、次のような一節にいたったとき、図らずもその疑問は氷解したのだった。
「古本を買つたり、虫干をしたりする時、本の間に銀杏や朝顔の葉のはさんだまゝに枯れてゐるのを見ることがある。いかなる人がいかなる時、蔵書を愛するのあまりになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として知らぬ人の手より、またさらに知らぬ世の、知らぬ人の手に渡つて行く。紙魚を防ぐ銀杏の葉、朝顔の葉は、枯れ干されて、紙魚と共に紙よりも軽く、窓の風に翻つて、行くところを知らない。」
そうか、あれは紙魚を防ぐためのものだったのか。ひとたび分かってみれば、そんな自明とも思われることになぜ気づかなかったのか、我ながら不思議なほどだった。まことに、ものを知らない人間には知る喜びがある。あの枯葉は、はるか昔、今よりもずっと貴重であった本をいとおしんだ心遣いの、かすかな痕跡であったのだ。丹念に木の葉を本のあいだにさしはさんでいた、さも克明そうな人物にたいして、親しみに似た感情を覚えはじめた。あのとき風に飛ばしてしまった枯葉をさえ、にわかに惜しむような気持になった。
「枯葉」
就寝、2時予定。
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