起床、8時。終日晴れ。母の日。
アニメを見てぼんやり
朝食、まありと。
厚焼き玉子、大根のお味噌汁、みょうがのぬか漬け、塩おにぎり。
少しトドを撃ち、冷蔵庫やキッチンの掃除をする。
きのこ帝国『渦になる』を音量をあげてかけながら掃除をしていると、
買い物から帰ってきたまありが絶句しながら聴いていた。
継母から電話。ひさしぶりに長話をする。
母の日のプレゼントが届いた、と
わたしからは古いバカラのワイングラス。
まありからはお花。
夏に遊びに来たいとのこと。
いつでも来ていいよ、と伝える。
昼食、まありと。
上海風の海鮮焼きそば。
烏賊、海老、帆立。焼きそばは香港蝦麺。
仕事をしながら、BSでリマスター版の「東京物語」など。
画質、音質ともにものすごく向上してて驚く。
先日の4枚、脱稿。
新たに6枚書き、推敲、脱稿。
若干、後半部のプロット修正を構想するが、どうだろう。
しばらく寝かせるほかないか。
楽しみにしていた「ヤマロク醤油」着。
小豆島のお醤油。完全杉樽仕込み。
夕方、まありが友だちを2名連れてくる。
肉を買ってきたので4人で夕食。
焼肉(七輪)、里芋とたらこの煮物、野菜と鶏肉の生春巻、小松菜の辛子醤油和え、大根のぬか漬け、ごはん。
肴に、烏賊のソルベ、烏賊のゲソ焼き(わさびで)、鶏皮の炙り(ポン酢と柚子胡椒)、葱味噌焼き。
飲み物は、サッポロ黒ラベル、ギネス、シメイ。
八木酒造「ひとつき半むろか」のお湯割り。
春巻の具材は、ささ身、グリーンアスパラ、アルファルファ、クレソン、
香菜、水菜、白髪葱、スペアミント。
ソルベは烏賊の肝に多めの塩をふり、すぐにラップして凍らせる。
半解凍で輪切りにし、少しずつ食べる。
卯の花に烟かゝるや夕炊 成美
夏めきて人顔見ゆるゆうべかな 成美
だらだらと飲み食いしながら、遅くまで読書をしたり。
ヨハン・ハウツブロム『火と文明化』など。
ちょっと散漫とした印象の本だが、現在の状況の背景にあるものはここにすでに指摘されている。
薪ばかりでなく、蒸気にも代わる新しいエネルギー源の主要な利点は、それがもっと柔軟に適応できることである。燃料は薪や石炭よりも運びやすく、分配しやすい。さらに、燃焼の調節ももっと正確にできる。必要とされる技術上の装置があれば、ガス、石油、電気は非常に均一で正確に管理できるエネルギーの供給を約束する。電気にはさらにそれが受け取られる所でまったく「清潔である」という利点がある。火の使用に関連するほとんどすべての面倒で厄介な仕事、つまり、煙を除去したり、燃料を蓄えたり、火の面倒を見たりする仕事は、電気の消費者にはもはや不必要である。火の危険は完全に取り除かれたわけではないが、大いに減じられている。今日、人々は、簡単な動作を少しするだけで、しかも危険が最小限の状態で、高度に集中化されたエネルギーを大量に利用することができるのである。
農業であれ、工業であれ、交通や運輸であれ、また家庭の仕事や余暇であれ、このことは、生活のすべての領域に当てはまる。あらゆる所で、極めて少ない肉体的努力でもって大量のエネルギーを流通させることが可能である。その結果は、多くの点で生活をより快適にし、物理的な過程が習得されうるという感情を高め、同時に独立の幻想を生み出すこととなる。
それは明らかに幻想である。人々が、ガソリン・エンジン、バッテリー、電気回路への接続、ガスの本管といったかたちでエネルギーが利用できるかどうかにかかわらず、どの場合でも、人々が複雑、かつ広範な社会的相互依存のネットワークの一部になっているがゆえに、それが可能になるのである。供給の経路が機能しているかぎり、また、人々が経済的要求に応じることができるかぎり、かれらは全体的配置についてそれほど心配する必要はない。ところが、諸条件のいずれかに何か誤りが生じれば、かれらはただちにそれに直面するのである。
このようなぐあいに、新しいエネルギー源の使用によって、常に火の支配に特徴的であった傾向が明らかに継続されるのである。自然の諸力への依存はあまり直接的ではなくなり(それは、依存度が下がったということではない)、同時に文化的、社会的資源への依存が増大することになった。エネルギーの供給を常に可能にするには複雑な技術上、組織上の装置が必要とされる。この装置のほとんどは産業社会の「舞台裏」に置かれ、普通の消費者には見えない。
火の慣用化は人間の生活をより快適、かつより複雑にしてしまった。破壊的な潜在力、燃料へのやむことのない欲求を備えたあの偏在する火は、次々に続いていく段階で異なった様相を呈してきた社会に絶え間なく圧力を加えるのである。専門化や組織化における発展のせいで、現代の産業社会で生きるほとんどの人間はこうした欲求のいくつかをほとんど感じていない。しかし、これは、それらがなくなったということを意味しているのではない。どの世代も火にいかに対処するか新たに学ばなければならない。どの世代も前任者と同じ技術を習得する必要はないが、その成員は火を持つ集団のなかで暮らす一般的な能力を獲得しなければならない。これは、今日の社会においては依然として、すべての人間は火そのものについての基本的な知識をいくらか獲得しなければならないということ、また――これはさらに重要なことではあるが――すべての人間は火の制度の社会組織に参加するようになることを意味している。そして、そのような制度をいくぶん理解することも望まれるのである。
まありの友人たちは泊まるということで、かしましかった。
いつもは静かな家なのでこういう日もよかろう。
就寝、3時予定。
0 コメント:
コメントを投稿