Yucca gloriosa (17th May. 2012)

/ 2012年5月18日金曜日 /

起床、6時。終日、晴れ。

朝から散歩をする。
ユキノシタ、花言葉は「片意地」。

雪の下名のらで寒し花の色  越人
 
暗き日や花無き庭の雪の下  永井荷風

ほかにカタバミ、ツリガネヤナギ、マツバギク、ペチュニアなど。

大きな多肉性のつんつんした葉の庭木のような植物が、
巨大な神楽鈴みたいな釣鐘型の真っ白い花を咲かせていた。
よく見る植物だけど、名を知らない。
帰宅して調べてみると、アツバキミガヨランとある。
リュウゼツラン科イトラン属のユッカと呼ばれる植物の一種で北アメリカの植物。
「ユッカ」という名には聞き覚えがある。中学校の校庭に生えてた気がする。
用務員さんによく葉を刈られていた。

朝食、まありと。
紫キャベツのサンドイッチ、絹豆腐のサンドイッチ、アッサム。

紫キャベツは千切りにして塩もみ、レモン汁とオリーブオイル、粒マスタード。
絹豆腐のサンドイッチは、水切りしたお豆腐に塩、こしょう、オリーブオイルで調味しペーストに。
フムスみたいな感じでパンに塗る。

午前、メイン7枚。

昼食、ひとりで。
あまりお腹が空いていないので、鴨ハムとオレンジのサラダのみ。
サラダは鴨ハムと、日向夏、いんげん、きゅうり、レタス、ミニトマトのピクルス、
マスタード・ドレッシングで。

午後、メイン12枚。累計170枚。
集中する。

昼過ぎから強風。夏嵐と言ってよいほどの風。
ベランダのミニトマトの鉢が、また倒れてしまった。

末杉をほめてや風のかをる音  芭蕉
 
夏嵐机上の白紙飛び尽くす  正岡子規
 
れもん一つ緑の風の香に立てり  多田裕計
 
みどり児の香が先にくる青嵐  加藤知世子

子規の句はやや演出過剰だが、この青臭さが良いとも言えるかもしれない。

夕食、まありと。
豚肉のほうじ茶煮、きゅうりと塩サバの三杯酢和え、アボカド入りのポテトサラダ、
めかぶ汁、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはプレミアムモルツ。

豚の塊肉は水から茹でてアクをとり、ほうじ茶のパックを入れて40~50分煮る。
湯につけたまま、常温まで冷ます。
冷ましたら醤油やみりんで作った煮汁で煮て、さらに半日漬けておく。
食べる直前に温めて切り分ける。
ほうじ茶の香りが立って美味しい。
ほうじ茶の代わりにウーロン茶でもいい。

ポテトサラダは、じゃがいもが熱いうちにドレッシングを混ぜると酢がとんでじめじめしない。
冷めてからアボカドをいれる。
ドレッシングに醤油を隠し味に少々加えるとごはんと相性がよくなる。
お酒に合わせるには、胡椒を効かせたほうがいいと思う。

お風呂に入ったあと、トド撃ち。
Oせんせいに長文のメールなど。

今日はがっつり疲れた。
ひさしぶりに本を読まずに早寝しようかと思う。
就寝、1時半予定。

fekete rigó 04

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薬を飲む。
朝、昼、夜、就寝前。
日に四度。
ときどき頓服を飲む。

毎日、飲む。

薬は、わたしを覆う不可視できつく貼りついたヴェールを溶かし消したりはしてくれない。ただ、それに注意が向かないよう、脳を麻痺させる。ヴェールを別のヴェールで覆う。何に違和感を感じているのかわからなくさせ、わからないこともわからなくさせる。若い主治医によれば、それがわたしに与えられた「休息」だった。

白いの、ピンク色の、薄青色の、黄色いの、オレンジ色の、
丸いの、楕円状の、真ん中にすじが入ってるの、粉末なの、

いろんな薬をいろんな組み合わせて飲む。

薬は、長い時間を淡々と進めてくれた。
朝がきて昼がきて夜がくる。授業、休み時間、授業、休み時間、授業、休み時間、授業、休み時間。その繰り返しを。わたしにはそれが苦痛ではなかった。もうなにも考えていなかったし、何も感じなかった。昨日のことはほとんど覚えていない。記憶しているのは宿題くらい。クラスメイトとどんな話をしたかなんてぜんぜん覚えていない。主治医は二週間に一度わたしの様子を見る。いくらか質問をし、わたしがろくに答えられず、記憶があやふやで(つまり過去に拘泥できないってことだ)、自己分析なんてまったくできないのを確認して、にこっと笑う。「うん、落ち着いているみたいで安心したよ。お薬でだいぶ楽になっているみたいだね・・・」

春が過ぎ、梅雨が明け、夏になろうとしていた。

苦しくない。苦しくない。苦しくない。
何も苦しくない。

苦しいってどういうことかわからない。
苦しいってどういことだったっけ?

朝起きて、授業がはじまるギリギリまで寮の自分の部屋でまんじりとしている。だってみんなとぞろぞろ登校するなんて気持ちが悪いだろう。たとえ、寮から学校までたったの200mほどであってもだ。他人の声が気持ち悪い。自分の声も気持ち悪い。挨拶なんてほんとうに嫌だ。息をするのも嫌だ。彼らが吸って吐いた空気が、わたしの身体に入ってくるなんて考えるだけでぞっとする。おぞましい。
日の光は気持ち悪い。朝の匂いは気持ち悪い。太陽は、わたしの敵を明確にする。

わたしはだいぶ人が少なくなった道を、ひとり登校する。
いちど、靴を履き忘れて登校したことがあった。「靴を履き忘れて外出する」なんて経験をしたことがあるひと、どれだけいるだろう。靴も履かずに、靴下だけで学校に行こうと道を歩き始めたわたしを見つけた寮監は、心配して保健室まで付き添ってくれた。わたしは死にたくてたまらなくなった。それなのに、ちっとも苦しくない。

たいていHRは始まっている。わたしが後ろからぼんやり教室に入っても、担任はなにも言わない。出欠をとり、なにやら連絡事項を淡々と告げ、HRは終わる。そしてわたしのところにやってきていつも同じことを言う。「辛かったら言えよ、保健室行ってもいいから。」 わたしはうつむいてずっと机に入っている傷を眺めている。なにも考えることなんかない。悲しくもない。時間は淡々と過ぎていく。わたしは観察者。なにも見えないのに観察している。滑稽なことだ。しかもフラスコの中から、なのだ。

苦しくない。苦しくない。苦しくない。
何も苦しくない。

お腹が空かない、疲れない、眠くもならない。
空腹も疲労も眠気も、全部忘れてしまっていた。

たぶん両手両足をもがれても、きっと痛みを感じないのではないかと真剣に思っていた。薬を飲まなければいくらでも起きていられた。そのくせまったく疲れない。いや、疲れているんだろうけれど、それがわたしに届かない。

お腹も空かない。
日に一度、学食で食べる。昼食だ。

食事は苦痛だ。味がわからない。塩味、甘さ、辛さ、酸っぱさ、苦さ、歯ごたえ、柔らかさ、固さ、それぞれがそこにあり、それはわかるのに、味ではない。わかるだろうか、この屈辱。わたしは継母のベークドチーズケーキが食べたかった。高校生の頃、ずっと食べたかった。甘くてコクがあって、少ししょっぱみもあるケーキ。でも、きっといま食べても発泡スチロールを食べるのとたいしてかわらないだろうこともよくわかっていた。
それはイデアだ。祖母のお煮しめも、継母のチーズケーキも。その味は記憶にはあって想起できたけど、わたしにはもう手が届かない。

当然、わたしはガリガリに痩せていた。鉛筆のようだった。
手がかかる赤ん坊がいるのに、継母はいつも病院に付き添ってくれた。病院では気休めの点滴をする。点滴ほど不快なことはない。体内に得体のしれない液体が注がれることは恐怖だ。わたしはいつも、点滴のあいだ震えていた。ときどき吐いた。継母はいつもそばにいて、わたしが恐怖と戦っているあいだ、実家の話をしてくれる。長い話で、わたしはぜんぜんそれを聞いていない。覚えてもいない。それでも話してくれる。
そして帰り際に氷砂糖の袋をくれるのだ。これなら食べられるわよね、余計な味はしないものね、甘いだけだしね、だからいつも口に入れてて、お願いよ。だけどわたしは、氷砂糖を全部口のなかで溶かすことができない。糖分が身体に入ってくるのがわかるのが我慢できない。半分ほどなめたところで、きまって吐き捨ててしまう。

毎日、薬を飲む。飲み続ける。
効いているのか、効いていないのかもわからない。
苦しくはない。苦しいってどういうこと?

これだけ踠きながら、わたしはひとりでいた。
先生はどう接すればいいのかわからず当たり障りない会話をわたしに向けた(もちろんわたしはたいてい頷くだけだ)、クラスメイトはわたしを心配したり邪険にしたりしていた。わたしはそれをずっとただ眺めていた。ひとりで。

梅雨が明けたある日、夕方、渡り廊下で。
リトルミイみたいに頭のてっぺんにお団子を作った先生がわたしを呼び止めた。司書の先生だった。
「図書室の利用者カードは持ってますか?」
持っていたと思う。入学のときにもらったと思う。だけど捨ててしまった。使わないから。本は読めない。読んでも頭に入らない。
「そう・・・ じゃあ再発行しましょう。ほら、来なさい」
なんでわたしの名前を知っているのか。ああ、目立ってるからな、わたし。面倒だ、億劫だ、帰りたい、部屋でじっとしていたいんだよ・・・ でも、嫌だと言う気力もなかった。
図書室は渡り廊下の先の茶色の建物の半地下にある。階段を下りると、手を合わせ首を少しかしげた真っ白いマリア像。その左に図書室のドアがあった。観音開きの重いドア。

わたしの図書室。そこはわたしに用意された繭。
踠くわたしに与えられた「ほんとうの世界」。


Cheesy Beef And Cornbread Cobbler (16th May. 2012)

/ 2012年5月17日木曜日 /



起床、6時半。終日、晴れ。
虚構新聞の話でもちきりなんだけど、正直どうでもいい。
くだらないことを言えなくなった世の中なんてつまらないから、
わたしもくだらないことを言い続けるだけ。

まありがずいぶん早く出かけたので、朝食抜きで仕事をする。
校正1本、軽くトド撃ち。
その後メインディッシュの執筆。午前中9枚。
途中から、リビングでじゃがいもを茹でるのを気にしながら書く。

昼食、ひとりで。
シェパーズパイ風コーンブレッドコブラー、グリーンサラダ、グリンピースと豆乳のスープ(昨日の残り)。

コブラーは、冷凍していたミートソースにマッシュポテトを混ぜてフィリングを作って、
蓋になるビスケット生地はコーンブレッドを混ぜる。
熱いうちが美味しい。いや、正確に書くなら、冷めたら美味しくない。

キッチンとオーブンを拭きあげ、リビングでまた仕事。
粛々と、12枚。累計151枚。

夕方、買い物に出かける。
若葉、金雀枝。

肩凝りに効く葉桜の中にいる  山崎十生
 
柿若葉重なりもして透くみどり  富安風生
 
金雀枝の黄金焦げつつ夏に入る  松本たかし

夕食、まありと。
牛肉とパプリカの豆鼓蒸し、さわらの米粉から揚げ、揚げ茄子とパプリカの中華風マリネ、
大根と長芋のサラダ、ふきのとうと若布のお味噌汁、きゅうりのぬか漬け、ごはん。
ビールはシメイ。
ふきのとうは、たぶん今年最後だろう。

お風呂に入って、少し仕事。
校正1本終わらせる。

バーボン(ウッドフォード・リザーヴ)のソーダ割りを飲みながら、読書や音楽など。
鶴ヶ谷真一『増補・書を読んで羊を失う』を途中まで。

和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。鳥が翼に風をはらむように、和本は閉じられた和紙のあいだに空気をつつみこんでいるからだろうか。昔、和本を商う書肆の店先で、主人が客に尋ねられた本を出すよう、書庫になっている二階に向かって言いつけると、丁稚がその本を取り出して二階から投げてよこした。本は座っている主人の面前に、まるで舞い降りたようにピタリと落ちてくる。それが書肆の丁稚の習得すべき手業だったのだという。かつては日々繰り返されたであろうそんな情景が目に浮かんでくる。
古い和本をひるがえしていると、ときおり本のあいだに木の葉のはさまれているのを見つけることがある。どれほど古いものなのか、手にした葉は乾ききって、もう元の色をとどめてはいないが、その輪郭を見れば、これは銀杏の葉、これは朝顔の葉だというように見分けはつく。
本に木の葉をさしはさんだりするのは、べつに珍しいことではない。名勝の地を訪れたおり、庭園に落ちているきれいな一葉をひろって、ささやかな記念としたり、落葉の時季に、まるで象牙に黄をにじませたような銀杏の葉や、窯変の色を思わせる紅葉の葉を手にして、読みさしの本のあいだにはさんだりするのはよくあることだろう。後日、たまたまひらいた本のあいだに、色褪せた一葉を見つけて、かすかになった記憶をしばしばたどったりすることもまた・・・。
そのとき手にしていた本は、しかし、風雅なこととするような本ではなかった。伊藤仁斎の『童子問』。学問の道筋と心構えを懇切をきわめて講じた、三巻からなる木版本だった。木版本の場合、本に記載された日時が、実際の刊行時期と異なることがあるそうだから、その本も実はそれほど古いものではないのかもしれないが、奥付にあたる最後の一丁には、宝永四年(一七〇七年)とあった。
行間や上部の欄外に、朱を交えた丁寧な細字で、おそらくは指定のためと思われる書き入れがなされてあり、はるか後世のおぼつかない後学には、それがことのほかありがたかった。その書き入れにはまた、もうひとつ別の効用もあった。読んでいると、何事もゆるがせにしない古人の精神が乗り移りでもしたものか、こちらもいくらか粛然とした気持ちになるのだ。
はじめ、木の葉のはさまれているのを目にしても、さして気にはならなかった。二つ折りにして綴じられた紙のすきまに、葉はひそませるようにしてはさみ込んである。しばらくするうちに、どうもそれが尋常ではないような気がしてきた。二、三丁めくると、必ずひそませてある葉が、薄い和紙を透かして見てとれる。とても何かのよすがに、などというものではない。いったい誰が何のためにと考えているうちに、次々と見つかるその黒ずんだ葉が、何かいとわしいものに思えてきて、見つけ次第、窓から投げ棄てていった。この葉は実に久方ぶりに、戸外を吹きすぎる風に舞ったことになる。
それにしても、なぜこんなふうに、葉を執拗にはさみ込んだりしたのだろうという疑問は、しばらく胸にわだかまっていたが、風に飛び去った木の葉のように、それもいつか忘れてしまった。もう何年も前のことだ。
ところが最近、たまたま荷風の随筆『冬の蠅』所収の「枯葉の記」を読んでいて、次のような一節にいたったとき、図らずもその疑問は氷解したのだった。
「古本を買つたり、虫干をしたりする時、本の間に銀杏や朝顔の葉のはさんだまゝに枯れてゐるのを見ることがある。いかなる人がいかなる時、蔵書を愛するのあまりになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として知らぬ人の手より、またさらに知らぬ世の、知らぬ人の手に渡つて行く。紙魚を防ぐ銀杏の葉、朝顔の葉は、枯れ干されて、紙魚と共に紙よりも軽く、窓の風に翻つて、行くところを知らない。」
そうか、あれは紙魚を防ぐためのものだったのか。ひとたび分かってみれば、そんな自明とも思われることになぜ気づかなかったのか、我ながら不思議なほどだった。まことに、ものを知らない人間には知る喜びがある。あの枯葉は、はるか昔、今よりもずっと貴重であった本をいとおしんだ心遣いの、かすかな痕跡であったのだ。丹念に木の葉を本のあいだにさしはさんでいた、さも克明そうな人物にたいして、親しみに似た感情を覚えはじめた。あのとき風に飛ばしてしまった枯葉をさえ、にわかに惜しむような気持になった。
 
「枯葉」

就寝、2時予定。



Manifeste de Monsieur Antipyrine (15th May. 2012)

/ 2012年5月16日水曜日 /

起床、6時。
午前中は雨が降ったりやんだり、午後から雨はあがる。

早朝、ひさしぶりに散歩。
花水木が終わり、山法師が咲いているのを見かける。
山法師の実は食べれるらしいけど、食べたことがない。

夏ごとに木の暮れまぎれ見過ぐしし花やまばうし白白しろし  鹿児島寿蔵
 
羽の旅の下に印象山法師  佐久間庭蔦

と、よその家の庭にユキノシタ。冷たい白。

花の名の夏なき庭や雪の下  乙由
 
つくばひに雨水溢れ鴨足草  柳澤東丁

朝食、まありと。
あじの干物、ゆでわらびと油揚げのお味噌汁、ピーマンのぬか漬け、ごはん。

そろそろと仕事。
昨日の原稿を推敲して脱稿。
校正仕事を2本。

昼食、ひとりで。
かぼちゃとドライトマトの温サラダ、グリンピースと豆乳のスープ。

午後、大ものを10枚。累計130枚。
プロットの見直し。
 
夕食、まありと。
ラムチョップソテーのにんにく味噌のせ、バター風味の蒸し野菜、
ラディッシュとじゃがいものお味噌汁、たたききゅうり、にんじんのぬか漬け、ごはん。
ビールはアサヒスーパードライ。

ラムはオリーブオイルを塗って塩胡椒はしないで焼く。
焼いた後でにんにく味噌をのせる。
蒸し野菜は玉ねぎ、アスパラ、キャベツ、じゃがいも、かぼちゃ。
発酵バターとちょっとお醤油。ごはんにも合う。

急に思いたって、クリームチーズとプロセスチーズをぬか床に仕込む。
クリームチーズはガーゼでくるんで、プロセスチーズはそのまま。

音楽を聴いたり、読書をしたり。
伊井直行『さして重要でない一日』、
ツァラ(塚原史・訳)『ムッシュー・アンチピリンの宣言』、
長沢栄治『アラブ革命の遺産』、など。

人間という、あの無限で無形の変容体を形成する混沌状態を、人びとはどうやって秩序づけようと望むのだろうか。「汝の隣人を愛せよ」[聖書]という原則は偽善だった。「汝自身を知れ」[ソクラテス]はユートピアだが、偽善よりは受け入れられる。なぜなら、それは意地悪さを含んでいるからだ。情けは無用だ。大虐殺のあとで、浄化された人類という希望がおれたちに残されている。おれはいつも自分のことについて語る。というのも、相手を説得したくないからだ。おれには、他人を自分の流れに引きずりこむ権利はない。おれは自分のあとについてくることを誰にも強制しない。天空の星の層へと矢のように上昇する喜び、あるいは死体と豊かな痙攣が満開の地下の坑道へと下降する悦びを知れば、誰もが自己流に自分の芸術が作れる。鍾乳石と同じことだ。鍾乳石をいたるところで探してみよう。苦痛で拡大したキリスト生誕の馬小屋の中に、野ウサギのように白い天使の眼の中に探してみよう。
 
ツァラ(塚原史・訳)「ダダ宣言1918」

日本酒、宝剣酒造「寳劔・純米酒」を冷やで。
肴はふろふき大根(昆布だしで)、ひいらぎのお煮つけ、自家製のいかの塩辛、きゅうりの古漬け。
〆にお煮つけでお茶漬けを1杯(2時過ぎ)。

暦のうえでは、5月は夏である。
そろそろ夜も短くなる。
時間に注意深く生きるとしよう。

夏の夜はふけゆくほどやなかるらむ暮るればやがて明くるしののめ  藤原兼宗

就寝、3時予定。

OTT Manifesto (14th May. 2012)

/ 2012年5月15日火曜日 /

起床、6時半。終日雨が降ったりやんだり。
すぐに仕事、2枚。明日推敲。

朝食、まありと。
パンバニーヤ、アッサム。

パンバニーヤはフィセルで作ったサンド。
フィセルにエキストラバージンオイルを塗って、水菜、レタス、
素揚げした茄子、乱切りトマト、アンチョビをはさむ。

居間を掃除して、淡々と仕事。

昼食、ひとりで。
バタートースト、スクランブルエッグ、きゅうりの生クリーム和え。

きゅうりの生クリーム和えはイギリス料理。
塩もみしたきゅうりの乱切りを生クリームと粒マスタードで和える。

午後からスカイプ会議を2時間ばかり。
いろいろ突っ込まれて泣きそうになる。

はなはだしく疲れて、会議のあとシャワーを浴びたり。
またすぐに仕事。
本日の収穫は、2枚(推敲待ち)+8枚(累計120枚)。
17時半には筆を擱く。


雨がよく降る。この時期の雨を「卯の花腐し」という。


むら消し春もかかりき卯花の雪をくたしてふれる雨かな  正徹
 
夕づけて水に音なく降る雨は卯花くたす初めなりけり  秋成



夕食、まありと。
鯖のにんにく竜田揚げ、阿茶蘭漬、大根のなます、茹で絹さやの黒ゴマ和え、
ピーマンとみょうがのぬか漬、わかめのお味噌汁、ごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

阿茶蘭漬は鰯で。
鰯を酢に漬けるのは10分ほどでいい。
酢で煮えてしまうとおいしくない。
茹でてあく抜きした牛蒡はもうすこし長く漬けたほうが味がなじむ。
なますには乾煎りしたじゃこを。

少し日本酒。悦凱陣・山廃純米を冷やで。
肴はピーマンのぬか漬け、烏賊の塩辛(手作り)。

長沢栄治氏の『アラブ革命の遺産』という大著(606ページ!)を読みはじめる。
いきなりしょっぱなからユダヤ系エジプト人のマルクス主義者
アハマド・サーディク・サアドからはじまるという構成でしびれる。
サアドのように、
境界(イスラームとユダヤ、エジプトとパレスチナ、共産主義と資本主義、行動と研究)に生きたひとというのは、
まさに極端な「振れ幅」のなかで生をデザインするべく苦闘したわけで、
革命に興味がないとしても、研究者や表現者は知っておいた方がいいひとじゃなかろうか。
そんなことを考える。

突然だが、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト提督のこの金言は
いつも心にとどめておきたいものだ。曰く、

人を褒めるときは大きな声で、悪口を言うときにはより大きな声で。

就寝、3時予定。

Vuur en Beschaving (13th May. 2012)

/ 2012年5月14日月曜日 /

起床、8時。終日晴れ。母の日。
アニメを見てぼんやり

朝食、まありと。
厚焼き玉子、大根のお味噌汁、みょうがのぬか漬け、塩おにぎり。

少しトドを撃ち、冷蔵庫やキッチンの掃除をする。
きのこ帝国『渦になる』を音量をあげてかけながら掃除をしていると、
買い物から帰ってきたまありが絶句しながら聴いていた。

継母から電話。ひさしぶりに長話をする。
母の日のプレゼントが届いた、と
わたしからは古いバカラのワイングラス。
まありからはお花。
夏に遊びに来たいとのこと。
いつでも来ていいよ、と伝える。

昼食、まありと。
上海風の海鮮焼きそば。
烏賊、海老、帆立。焼きそばは香港蝦麺。

仕事をしながら、BSでリマスター版の「東京物語」など。
画質、音質ともにものすごく向上してて驚く。

先日の4枚、脱稿。
新たに6枚書き、推敲、脱稿。
若干、後半部のプロット修正を構想するが、どうだろう。
しばらく寝かせるほかないか。

楽しみにしていた「ヤマロク醤油」着。
小豆島のお醤油。完全杉樽仕込み。

夕方、まありが友だちを2名連れてくる。
肉を買ってきたので4人で夕食。
焼肉(七輪)、里芋とたらこの煮物、野菜と鶏肉の生春巻、小松菜の辛子醤油和え、大根のぬか漬け、ごはん。
肴に、烏賊のソルベ、烏賊のゲソ焼き(わさびで)、鶏皮の炙り(ポン酢と柚子胡椒)、葱味噌焼き。

飲み物は、サッポロ黒ラベル、ギネス、シメイ。
八木酒造「ひとつき半むろか」のお湯割り。

春巻の具材は、ささ身、グリーンアスパラ、アルファルファ、クレソン、
香菜、水菜、白髪葱、スペアミント。
ソルベは烏賊の肝に多めの塩をふり、すぐにラップして凍らせる。
半解凍で輪切りにし、少しずつ食べる。

卯の花に烟かゝるや夕炊  成美

夏めきて人顔見ゆるゆうべかな  成美

だらだらと飲み食いしながら、遅くまで読書をしたり。
ヨハン・ハウツブロム『火と文明化』など。
ちょっと散漫とした印象の本だが、現在の状況の背景にあるものはここにすでに指摘されている。

薪ばかりでなく、蒸気にも代わる新しいエネルギー源の主要な利点は、それがもっと柔軟に適応できることである。燃料は薪や石炭よりも運びやすく、分配しやすい。さらに、燃焼の調節ももっと正確にできる。必要とされる技術上の装置があれば、ガス、石油、電気は非常に均一で正確に管理できるエネルギーの供給を約束する。電気にはさらにそれが受け取られる所でまったく「清潔である」という利点がある。火の使用に関連するほとんどすべての面倒で厄介な仕事、つまり、煙を除去したり、燃料を蓄えたり、火の面倒を見たりする仕事は、電気の消費者にはもはや不必要である。火の危険は完全に取り除かれたわけではないが、大いに減じられている。今日、人々は、簡単な動作を少しするだけで、しかも危険が最小限の状態で、高度に集中化されたエネルギーを大量に利用することができるのである。
農業であれ、工業であれ、交通や運輸であれ、また家庭の仕事や余暇であれ、このことは、生活のすべての領域に当てはまる。あらゆる所で、極めて少ない肉体的努力でもって大量のエネルギーを流通させることが可能である。その結果は、多くの点で生活をより快適にし、物理的な過程が習得されうるという感情を高め、同時に独立の幻想を生み出すこととなる。
それは明らかに幻想である。人々が、ガソリン・エンジン、バッテリー、電気回路への接続、ガスの本管といったかたちでエネルギーが利用できるかどうかにかかわらず、どの場合でも、人々が複雑、かつ広範な社会的相互依存のネットワークの一部になっているがゆえに、それが可能になるのである。供給の経路が機能しているかぎり、また、人々が経済的要求に応じることができるかぎり、かれらは全体的配置についてそれほど心配する必要はない。ところが、諸条件のいずれかに何か誤りが生じれば、かれらはただちにそれに直面するのである。
このようなぐあいに、新しいエネルギー源の使用によって、常に火の支配に特徴的であった傾向が明らかに継続されるのである。自然の諸力への依存はあまり直接的ではなくなり(それは、依存度が下がったということではない)、同時に文化的、社会的資源への依存が増大することになった。エネルギーの供給を常に可能にするには複雑な技術上、組織上の装置が必要とされる。この装置のほとんどは産業社会の「舞台裏」に置かれ、普通の消費者には見えない。

火の慣用化は人間の生活をより快適、かつより複雑にしてしまった。破壊的な潜在力、燃料へのやむことのない欲求を備えたあの偏在する火は、次々に続いていく段階で異なった様相を呈してきた社会に絶え間なく圧力を加えるのである。専門化や組織化における発展のせいで、現代の産業社会で生きるほとんどの人間はこうした欲求のいくつかをほとんど感じていない。しかし、これは、それらがなくなったということを意味しているのではない。どの世代も火にいかに対処するか新たに学ばなければならない。どの世代も前任者と同じ技術を習得する必要はないが、その成員は火を持つ集団のなかで暮らす一般的な能力を獲得しなければならない。これは、今日の社会においては依然として、すべての人間は火そのものについての基本的な知識をいくらか獲得しなければならないということ、また――これはさらに重要なことではあるが――すべての人間は火の制度の社会組織に参加するようになることを意味している。そして、そのような制度をいくぶん理解することも望まれるのである。

まありの友人たちは泊まるということで、かしましかった。
いつもは静かな家なのでこういう日もよかろう。

就寝、3時予定。

Infinite Lucifer (12th May. 2012)

/ 2012年5月13日日曜日 /

2週間ちかく、精神的に絶不調になったり風邪を引いたりしてバイオリズムが落ちてた。
よくわからん仕事のたてこみに忙殺されたり、
あげくのはてには先日から東京におったわけだけれども、全部割愛する。

今日は東京2日目。
起床、5時半。終日晴れ。

すでに朝から社畜なKMからメールが来ていて萎えつつ返信し身支度。
7時半には迎えがきて移動する。
渋谷のスタバで朝食をとりながらこの日の打ち合わせ&現在進行中な仕事の打ち合わせ。
ビジネスマンばかり。

開店と同時に渋谷J書店。次にK書店。
なんかいろいろやらされるのでニコニコしながら言われたとおりにやる。

時間が少し開いたので、超急いでFさんところへ陶器を見に。
クリスチャンヌ・ペロションのピンク色の水差し、田鶴浜守人の粉引大皿と蓋物など。
近所のレコ屋Cで数枚レコードやCD。

神田へ。編集についての打ち合わせ。
埼玉屋小梅の水ようかんと最中が用意してあって、昼食を食べてなかったのでありがたかった。
1時間ほどの打ち合わせののち、上野へ。T書店、A書店。
これで仕事も終了。上野うさぎやでお土産の喜作羊羹(欲張って3種、練り、小倉、抹茶、全部買った。
と、小腹がすいていたのでKMと焼き菓子を買い食いする。
万寿鏡と桃山(前者は「万歳」の焼印が押してあるどら焼き、後者は黄身餡の饅頭)を半分こずつ。

羽田まで送ってもらいながら編集について相談。
ぎりぎりまでターミナルで話し込む。
羽田から福岡。
飛行機のなかでも仕事。4枚。明日推敲予定。
重い荷物を抱えて、帰宅は21時。

まありはお出かけしてるらしく誰もおらず。
(結局、23時頃、酔っぱらって帰ってきた。あいかわらず自由なひとだ)
焼酎を飲みながら、音楽を聴いたり読書をしたり。

ひさしぶりにもふ@氏のボカロ曲を発見する。


カラ カラ カラ 鐘の音に
キミ キミ キミ は微笑み
ボク ボク ボク 手繰り寄せ
キス キス キス キス
 
ハナ ハナ ハナ でつくった
アイ アイ アイ の指輪を
イマ イマ イマ その指に
君 僕 今
 
キミキミキミキミ 君は目を閉じて
タダタダタダタダ ただ笑っていて
デモデモデモデモ でも君の鼓動が
ナイナイナイナイ ないないないない
 
テトテトテトテト 手と手を合わせて
キミキミキミキミ 君を抱き締めて
ポタポタポタポタ 僕のなにかが
ポタポタポタポタ ぽたぽたぽたぽた

就寝、4時半予定

Il tempo invecchia in fretta (1st May. 2012)

/ 2012年5月2日水曜日 /

起床、6時。雨がふったりやんだりな一日。
今日は八十八夜である。

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅の笠」
 
日和つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の茶にならぬ」

朝食、まありと。
煮玉子、キャベツのごましそ和え、こんにゃくのきんぴら、
油揚げと菜の花のお味噌汁、にんじんのぬか漬け、ごはん。

朝からクッキーを焼いて(生地をシート状に冷凍していたものを、シートのまんま焼いた)
食べながらのお仕事。
午前中、6枚。推敲、脱稿。

昼食、ひとりで。
ソフトフランスパンのサンドイッチ、コーヒー(マンダリン)。
サンドイッチの具は、アボカドのスパニッシュオムレツ、サニーレタス、発酵バター、マヨネーズ。

午後は大仕事のほう。
うんうん唸って8枚。計55枚。
明日はここまでを推敲してみようと思う。
だいぶいじるかもしれない。

夕食、まありと。
豚肩肉の蒸し物(黒ごまペーストのせ)、沖縄風の卯の花、筍と空豆の茶わん蒸し、
もずくと豆腐のお味噌汁、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

豚肩肉の蒸し物は「みぬだる」といって東道盆に出される料理。
黒ゴマのペーストをお肉のうえに乗せて蒸す。
沖縄風の卯の花も蒸して作る。塩味主体なので白い。筍を入れた。
アンド茶わん蒸し。
せっかく蒸し器を出したので、蒸し料理ばかり作った。
時間がかかった。

ワイン、「原茂ヴィンテージ甲州シュールリー2009」。
辛口すっきり、しかも安い。
肴はミスカンツァ。たんぽぽとクレソンのサラダ。
粗く砕いたパルミジャーノ・レッジャーノ、レモン汁、EVO、塩と胡椒。

たんぽぽのサラダの話野の話  素十

読書、バタイユ『宗教の理論』など。
このあたりのバタイユの思考は、科学観の批判的分析を可能にするだろうか。

帝国への組織化へと(つまり普遍性の組織化へと)進む運動のうちで、操作的な諸形態が重要となっていくにつれて、また製造の技術が発達していくにつれて、注意の一部分は再び事物たちの世界のほうへ連れ戻された。そして主として事物たちのほうへと向いた注意においてこそ、諸種の判断の一般的な自由とか矛盾などが可能となったのである。人間の思考は、神話的次元が及ぼす堅固な限定を逃れたのであり、それで客体たちが明晰、かつ判明な認識の用具が練り上げられていくにつれて、その用具を内奥次元の認識のために用いることが試みられるようになった。こういうわけで、明晰な意識には、ある種雑種的な内容が与えられたのである。内奥次元とは根底からして非現実的なのだが、その恣意的な神話的諸表象を脚色して、客体たちについての意識がそうであるような論理的な形態にうまく適合するよう按配したのである。それ以降、内奥次元は認識のすべての領域に、志向性をおびた諸決定を導入したのであるけれども、しかしそうした決定は内奥次元が内奥的なままとどまることができるような妥協の産物を表しているのである。こうして意識が言表することはそのように雑種的な性格を示していたが、学問=科学が少しずつそれを逃れるようになったのは、内奥界と現実界との分離が完了した状態になってのみなのである。しかしながら科学はその威力が確実になっていくにつれて、人間を人間自身から完全に遠ざけてしまい、科学者という種のほうに、お互いに競い合いながら、しかも一方が他方に完全に服従することなく発展していくと、ついにはまったく完全に現実的な世界と、同じく完全に現実的な人間が創設されるに至る。そしてそういう現実的な世界と人間を前にしては、内奥の次元が自らを表象しようとしても、それはただえんえんと続く口ごもりによってしか表象されないのである。このような口ごもりは、それがまだ一般的に現実原則に向かって内奥性原則を対立させる能力を持つという点で、並々ならぬ力を維持してはいるのだが、しかしそうした口ごもりを〈善意〉が迎え入れようとしても、その善意は、どんなときでも失望し、落胆するほかないという徒労感を刻印されている。というのも口ごもった声は、なんと柔弱そうに思えることだろう! そうした声の横滑りは、現実を明確に表現するとなんと無力きわまりないものだろう! 権威も正統性も全面的に事物の側に、生産の側に、生産された事物についての意識の側にある。その残余は全て虚偽であり、混沌である。

アントニオ・タブッキの『時は老いをいそぐ』も読了。
ものすごい眠気。

就寝、1時予定。

Rain on me (30th Apr. 2012)

/ 2012年5月1日火曜日 /

起床、6時。雨の朝。
早朝早々に煮玉子を煮て、昨日買ってきたぬかをぬか床に足す。

ようやく「偽物語」BD1巻、裏音声(千石撫子×阿良々木月火)を聞く。
つぎに副音声(戦場ヶ原ひたぎ×羽川翼)を聞いたら、いきなりガハラさんに怒られた。
「裏音声から聞いてるロリコンはいないでしょうね」

朝食、まありと。
スクランブルエッグ(プレーン)、トースト(自家製ジャムを2種、発酵バター)、
ヨーグルト、アッサム。

パンにバタたつぷりつけて春惜しむ  久保田万太郎

雨を見ながら仕事。
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ
 
――ぽつり落ちた雨だれと うつむいた傘
     色の変わるシグナルが 遠く霞んで―― 
 
透きとおる 風景を映し出し
ささやくように 揺れてる雫 
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ 
 
――ぷつり途切れた電話の なつかしい声 
  道の端で咲く花は 雨に打たれて――
 
過ぎていく 風景の切れはしを
鏡のように 空に映すよ 
 
Rain on me キラキラ 光零れて
街に降り注ぐ やわらかな雨
Rain on me キラキラ 煌めくセカイ
優しく包まれ 洗われてくよ  
 
Rain on me キラキラ 光零れて
誰かの代わりに 泣いている空
Rain on me キラキラ わたしのセカイ  
優しく包まれ 洗われてくよ
 
―――この雨に

昼食、ひとりで。
春ごぼうの豆乳ポタージュ(ごぼう、玉ねぎ、じゃがいも、しめじ)、
トースト(ジャムを2種)、コーヒー。
コーヒーはHさんところのフレンチロースト・ブレンド。
こないだ作ったジャムは、これでおしまい。

午後もひたすら夕方まで書く。
時間を忘れて書く。
正直言えば、書いている時間はテキストにひたっている快感もあるのだけれど、
我に返ると疲労困憊している。
これはいつものこと。

夕食。ちらし寿司(きゅうりと大葉、みょうが、筍)、鯛のレモンサラダ、
こんにゃくのきんぴら、鯛と焼きねぎの潮汁、にんじんのぬか漬け、ご飯。
ビールはシメイ。

鯛は軽く塩をして、レモン汁を振りかけて、30分冷蔵庫でマリネ。
それに赤玉ねぎ、トマト、ラディッシュのスライス。エクストラ・ヴァージン・オイル。
こんにゃくは手作りの玉こんにゃくで作った。

お風呂に入った後、もう少し書こうと思ったんだけれど、ぜんぜん筆が進まず。
結局、お風呂からあがって2枚しか書けなかった。
今日は17枚。トータル47枚。

ただ、意外とこのやり方はわたしには相性がいいのかもしれない。
いつもより楽な気がする。
日ごろの蓄積が必要なので、すぐに弾切れになりそうな気もするし、
これが質につながるかはわからない。

就寝、3時半予定。

Boy, Girl and the Story of Sagrada (29th Apr. 2012)

/ 2012年4月30日月曜日 /

起床、6時半。晴天のち曇り。
シーツを洗濯、掃除、キッチンを朝から磨く。
連休早々、関越道で大きな高速バス事故のニュース。

朝食、まありと。
鯵のひらき、春キャベツと厚揚げの煮物(ゆずごしょう)、菜の花のぬか漬け、塩むすび。

まありが外出したので、午前中から夕方まで、昼食も摂らずに仕事をする。
30枚ほど書く。
スタートしてはまずまず。

夕方、買い物へ。
子どもたちが公園で遊んでいる。
わさわさと吹きぬけていく風、カラスたち。もう晩春。

顔じゅうを蒲公英にして笑うなり  橋聞石
 
ゆさゆさと春が行くぞよ野辺の草  一茶
 
若草に口ばしぬぐふ烏かな  凡兆
 
行く先を惜しみし春の明日よりは来にしかたにもなりぬべきかな  凡河内躬恒

ストラヴィンスキーの「火の鳥」を聴きながら、肉をオーブンで焼いたり、シーツにアイロンをあてたり。
「火の鳥」はドラティ指揮デトロイトSO、82年録音。
これは1911年全曲版。19年版より好き
大胆な着想、強烈なリズム、踊るような色彩、斬新で緻密な書法。
若いストラヴィンスキーの野心を感じる傑作。

夕食、まありと。
ミートローフ、蕗とかりかりベーコンのオリーブオイル炒め、春キャベツとトマトの蒸し煮(キャベツを半玉)、
野菜のスープ(キャベツの芯、にんじん、たまねぎ)、バゲット。
ビールはサッポロ黒ラベル。

ミートローフは成形するときに上に一筋くぼみを作っておいて
そこにサラダオイルを注いでおく。
そうすると焼いている途中も油分が肉全体に行きわたって均等に焼けるし、
ぱさぱさした仕上がりにならない。
焼きあがったらホイルをかぶせてしばらく落ち着かせると、
切るときに形が崩れないし肉汁も逃げない。

お風呂に入ってワイン。
「Baron de Lestac 2008」。1000円くらいだった気がする。ふつうのワイン。
パリのタパスバーやオードブルバーで飲むようなワイン、と言ったらいいのか。
安ワインを飲みながら、60年代の古いガレージロックの7インチを数枚、消化。

読書、数冊。
為近磨巨登『書道用紙とにじみ』という本に蒙を啓かれる。

十数年前のことになりますが、墨の研究のため実験をしているとき、あることに気がつきました。
それは墨汁の一滴を画仙紙に落としたとき、濃墨の場合は墨だけが広がりますが、淡墨だけにすると墨のにじみの外側に水のにじみができたことです。これに興味を持ちその理由が知りたくていろいろ文献を調べました。
紙の研究者は「墨のにじみは、繊維と繊維の間の細孔(空隙)が毛細管の役目をし、墨汁が毛細管現象によって、連続した空隙をどの方向にも浸透する」と書いています。にじみは墨汁が繊維と繊維の間の空隙を通ることによってできることはわかりますが、水だけがにじむ現象については書かれていません。
墨の研究者は「墨汁が滲むのは、炭の粒子が微小だからである」とか「墨の粒子が小さいほど滲みやすい墨になり、墨の粒子が大きくなるほど線の輪郭が明瞭に現れる」と書いていますが、これも水にじみのことについては触れられていません。結局、文献では筆者が望んだような答は見つかりませんでした。
そこでまず思いついたことは、墨汁が毛細管を通るとき、墨粒子が重いため水だけが先に進むのではないかということです。ところがコロイドの本では、墨汁はコロイド(後述)であり特別なことがないかぎり墨と水に分離することはないと書いています。水にじみ現象の理由はわからないままでしたが、このことはその後、墨や硯のことを勉強しているときも頭から離れることはありませんでした。
そんなとき、ふと一つの考えが浮かんできました。それは墨汁は繊維間隙を通るが、一部の水は繊維の中を通っているのではないかということです。これなら水と墨汁が分かれて、水にじみがでいることが不自然でなくなるからです。

この仮説を検証するために、88歳の筆者はこつこつと研究していく。
そのさまが実に琴線に触れる。
知の歓びはどんなに歳をとっても関係ない。良書。

タブッキ『時は老いをいそぐ』をちびちび読む。
ハイランドパーク18年をロックで。

就寝、3時予定。

You know, is it all right not to hold it in anymore? (28th Apr. 2012)

/ 2012年4月29日日曜日 /

起床、7時。今日も終日晴天。

朝食、まありと。
トースト、サニーレタスとセリのサラダ、
ジャム2種(コリアンダー風味のリンゴジャム、グレープフルーツとバナナのジャム)、コーヒー。

昨日の原稿4枚、推敲&脱稿。
資料をまとめファイルする作業をこつこつと。

昼食、ひとりで。
白粥、菜の花の醤油煮、筍の豆鼓炒め。

菜の花はオリーブオイルで炒め蒸しして、お醤油をまわしかけて、軽く水分を切ったら出来上がり。
ざるなどでお醤油を切るのがポイント。
お醤油ちょっと甘いほうがいい。今日はジョーキュウ醤油を使った。
ついでに、昨日砂肝を大量に買ってきていたので、処理して、醤油漬けにした。

午後は書庫内で作業。
メモや付箋にまみれながらの作業。
これでほぼ終わり。

少し散歩をする。
今日はすでにGWに突入していて、あちこちで子どもたちが遊んでいる。

虻澄みてつゝと移りて又澄みぬ  虚子
  
里の子や髪に結いなす春の草  太祗

夕食、まありと。
豚と高菜のおこわ、イカとアスパラガスのXO醤炒め、豚しゃぶと水菜のサラダ、
もやしときくらげの味覇スープ、かぶと人参のぬか漬け。
ビールはヱビス。

田村合名「鷲尾」、黄麹でかめ壷仕込みの芋焼酎を飲む。封を今日切った。
ストレートで。あっさり。甘さもくどくなくてすいすい飲める。香りもいい。
水で割ると香りが立ってくるけど、いまのところはストレートで飲むか。
日が経つと加水したほうがおいしくなるような気もする。

おつまみ。
砂肝の醤油漬け、パリパリ鶏皮の五香粉風味、かぶのぬか漬け。

砂肝はお昼に仕込んだもの。けっこうめんどくさい。
砂肝を長ネギとしょうがの薄切りといっしょに下茹で。
そのあと粗熱をとって薄切り。
水気を拭いて、水、醤油、きび砂糖、紹興酒、八角、花椒、シナモンスティック、鷹の爪、
薄切りしょうが、ねぎのみじん切りで作った漬けだれに半日ばかり漬ける。

鶏皮は昨日の鶏油を作ったときにできたパリパリの皮を、
トースターで軽くあぶって五香粉と塩を振ったもの。これは簡単。

ほろ酔いで、音楽を聴いたり読書をしたり。
真田信治、友定賢治『県別・罵詈雑言辞典』。
全国の罵詈雑言を集めたもの。
県ごとの記述の冒頭が、いきなり罵倒ライヴというおもしろい体裁の本。

ごじゃらごじゃら語りがって、ただぎづげっど (宮城)
ばがしゃべりしてれば、うしろどっこ わったりやってるどー (秋田)
ぐじらぐじらずってっと、頭くらすけっつぉ (福島)
ぐずらぐずら言ってだら、頭三角にすっと (茨城)
ぐだぐだ言ーてっと、くらすけるろ (新潟)
ごじゃごじゃ言ーとると、いなか頭 かち殴るぞ (富山)
ぐだぐだ言ーと、こつをくれるぞ (山梨)
なま 言ーとったら いわすど (京都)
どうないやこないや言うよったら、どたまかちわってもたんどー (兵庫)
いらんこと言ーちゃーったら いてこますどー (和歌山)
かばちゅーたりょーりゃー ほんましばくで。わりゃー (広島)
どぐんだら 言ーよったら、どくろかちわるぞ (香川)
がたがたこきよったら、ほてくりこかさるーぞー (福岡)
なんのかんの言いよっぎん、くらすっぞー (長崎)
どたばた言ーよったら ちちまわすぞ (大分)
ぐっしゃぐっしゃ言っちょったら、ぶんたうったくっどねー (鹿児島)
めーやん くぃーやんすらー、たたっくるさーりんどー (沖縄)

これも当然収載されている。

どたまかち割って 脳みそかきまわしたろか (大阪)
ケツの穴から 手ぇ突っ込んで 奥歯がたがた言わしたろか (大阪)

世の中いろいろじゃよ。
就寝、2時予定。

Vermeer et Spinoza (27th Apr. 2012)

/ 2012年4月28日土曜日 /

起床、6時。終日晴天。
朝から掃除、洗濯。
ベランダの窓ガラスを拭く。

朝食、まありと。
蕎麦の実入りの雑炊(昨夜の残りごはんで)、もやしと筍の炒め物、筍のぬか漬け。

食事を終え、資料をそろえにすぐに書庫へ。
最初はスキャンしていたんだけど、めんどくさくなって、結局けっこうな量の本を運び出すことに。
水だしコーヒーを作るウォータードリッパーも書庫から回収。
天気が良くて、少し買い物(アイスコーヒー用の豆)をしたり、散歩をしたり。
藤の花をみかける。7分咲き。金雀枝、みやこわすれ。

藤棚の風は紫にて候  山下しげ人

金雀枝の咲きあふれ色あふれけり  藤松遊子

雑草園都忘れは淡き色  高濱年尾

帰宅して昼食、ひとりで。
蒸しジャガイモのアンチョビ乗せ、クレソンと生ハムのサラダ、コーヒー。
水だしコーヒーをさっそく作る。

午後、2枚。脱稿。その後、気力が続かず。
クッキーを焼いたり、料理をしたり。

夕食、まありと。
海老とクレソンと春キャベツの水餃子、蓮根のマスタード和え、
ネギと玉子の鶏油炒め、きくらげともやしの中華スープ、ごはん。
ビールは、まありが「飲んだことない」と言って買ってきた333。

水餃子は皮も自作。
たれはオリーブ油+わさび+米酢+塩、黒酢+にんにく+醤油の2種。
蓮根は酢を入れて下茹ですると固くならない。鶏油も自作。

ウクライナで連続テロ。
ロンドンで立てこもりのニュース。

ボルドーのデザートワイン「Chateau Peybrun 1998」。
ぎんぎんに冷やして飲む。おいしい。
蜂蜜、レモンの香り、ごくかすかに苦み。
これはもっと寝かせるとさらにおいしくなるような気がする。あと数年?
肴は昼間に作ったドライいちじくとくるみのクッキー。
このワインに合わせるのであれば、もうちょっと甘さをひかえたほうがよかった。

読書。ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』を読了。
スピノザはなにも決定論者だったわけではない。むしろ、自己以外の外部にもたれかかろうとする人間に、
自由の厳しさを教えようとしたのだろうと思う。
厳しいけれども、そのさきにはきちんと見返りがあるのだと。

パラダイスもなければ、後ろに隠れた世界も超越的な世界もないのだ! ここから、この内部から、われわれは一種の永遠性の経験を行なうのであり、そのときわれわれを活気づける”コナトゥス”は精神ともっとも正しくかつもっとも適合的な関係のなかに置かれて、真の観念がおのずから姿を現わすのである。しかし、めいめいがおのれの存在に即して存続し続けようとする努力を倍加するこの自己ヴィジョンは、全員に等しい仕方で与えられているわけではない。ここでも、異なった認識の段階があり、異なった種類の世界の読解の仕方がある。正確を期して言うなら、それは三種類ある。経験による認識、理性による認識、そして直観による認識の三つである。そして、この三つ目の認識が、観念を理性によって演繹することも、経験によって帰納することもなしに、観念をそれ自体として捉えることができるのだ、とスピノザは言う。
自己に署名し自らを正当化する真の認識は、演繹的観点から見ても、帰納的観点から見ても、ほとんど同じことである。しかし、直感だけがおのずから輝くものの明証性をキャッチすることができるのだ。これは直観に高度なかたちを与える絵画の歴史であり、ひとえにまなざしの効用にかかわる。実際、直感は自然が自らに即して広がりを持つのと同じような仕方で自然の光を取り入れる。それは自然的で自然を生み出す思考の明晰性のなかで、自然が自然身体によって見られた姿である。それはスピノザが精神が〈神あるいは自然〉に向かって立ち上がっていくときに身体が経験するものとみなした至福のヴィジョンにほかならない。しかし精神は、本当に自然の眺望と融合すること――たとえば『デルフト眺望』のように――ができるのだろうか? 精神は活動的であると同時に観想的であることができるのだろうか? 精神はつねに外部の支柱、根拠のない幻想としか言いようのない外在性や超越性を必要とする帰納法や演繹法から身を解き放つことができるだろうか?

深夜、4枚。
明日、推敲して脱稿する予定。
世間では連休がはじまっているけど、わたしには関係ない。

就寝、3時半予定。

PRESENCE (26th Apr. 2012)

/ /

実は先日は朝5時ころ眠り、6時半に起きた。
しかも恐ろしく不快な夢で。
にもかかわらず、終日晴れ。

朝食、まありと。
卵焼き、小松菜のお浸し、小松菜のお味噌汁、きゅうりのぬか漬け、ご飯。

午前中、10枚の仕事。
ひさしぶりに半分以上書いたものを破棄して全面的に書きなおすなんてことをする。
こういうことはあまりないんだけど、やはり疲れてるのかもしれない。
こんなふうに書き上げた成果物は、しばらく寝かせたうえでもういちど推敲すべき。

昼食、ひとりで。
豚肩肉とルッコラのカサレッチ、セリとサニーレタスのサラダ、ミニトマトのピクルス。
カサレッチには空豆と筍も入れた春っぽい感じ。クリームソースで。
がっつり。

午前中の仕事を終わらせる。
その後は書庫で資料を探したり、スキャンしたり。
ついでに書斎にたまってきた本やレコードやヲタグッズを書庫へ持ち込む。
どんどん増えていくのが正直怖いんですが。

夕食、まありと。
テンジャンチゲ、春野菜のナムル(アスパラ、さやいんげん、筍、空豆、菜の花)、
ししとうとみょうがの味噌コチジャン漬け、蕎麦の実入りごはん。
ビールはサッポロ黒ラベル。

テンジャンチゲの具は豚肉、じゃがいも、あさり、えごま葉、ズッキーニ、お豆腐。
テンジャンは小娘に買って来てもらったのだが、偶然、材料が大豆オンリーのジャンだった。
最近は混ぜ物がしてあるものが多いから、むしろ珍しいかもしれない。
ちなみにテンジャンは、米や麦が入っていないので甘くない。かわりにコクがある。
日本のお味噌汁は煮たてちゃダメ。「煮えばな」の見極めがお味噌汁の難しさ。
だけどテンジャンはぐらぐら煮たててもいい。味が変わらないし、むしろコクが増す。

ししとうとみょうがのコチジャン漬けは、昼食の時に仕込んでおいた。
コチジャンだけでなくテンジャンも使ってみたから、正確に書けば「サムジャン漬け」になるのかな?
テンジャン+コチュジャン+はちみつ+白炒り胡麻+ごま油。
みょうがには切り込みを入れて味が染みるようにしておく。
2、3時間、できれば半日くらい漬け込むとおいしい。

読書をしようと思ったのだが、昨夜に引き続いて他者に関するあれこれをワインを飲みながら。
オイルサーディン缶に山椒の実の佃煮を入れてぐつぐつ。
「ルミエール・イストワール2010」という甲州ワイン。はじめて飲む。
デラウェアだからもっと甘いのかと思っていたら、わりと辛口だった。

ボロディン「交響詩《中央アジアの草原にて》」を聴く。
ロストロポーヴィチ&パリ・オペラ座管弦楽団の77年もの。
思い切った楽しい演奏で、しかしピタッとはまる。
舞台役者のみえを切る様子っぽい良演。

本垢顔本で討議の様式についての討議。
いくらかトドを撃って寝る。
この日記も書かないで、しかも本を一切読まないという堕落した日であった。
ここしばらく、いろいろだらけているな、と思う。

就寝、3時。

This changes everything. (25th Apr. 2012)

/ 2012年4月26日木曜日 /


起床6時。午後からひどい雨。

サラ・ヴァン・ゲルダーの『99%の反乱』を再読する。
オキュパイNYはその運動の成果として「占拠運動の10の原則」を掲げることができた。

1)危機の元凶を名指しする:99%の抱える問題はウォール街の拝金主義、腐敗した銀行、そして企業の政治システム乗っ取りに原因がある。

2)求める世界像をはっきり示す:わたしたちは、最も富める1%のためだけでなく、みんなのために機能する世界を創ることができるはずだ。

3)公の討議の新しい基準を作る:今や、政策や提言を主張する者は、そのアイデアが99%のためのものであることを実証する必要がある。1%のためだけではもはや十分ではない。

4)新しい物語を提示する:解決法はもはや政府を困らせることではなく、社会や政府を企業支配から解き放つことだ。

5)大きなテントを作る:わたしたち99%は、あらゆる年齢、人種、職業、そして政治的信条の人々から成り、互いに尊びながら協力しあうことを学んでいる。

6)変化をもたらす機会をみんなに与える:誰かが仕切っているわけではない。誰でも参加でき、何かを実践させることができる。

7)運動であって、要求リストではない:一時しのぎや一つの問題の改善ではなく、変革による構造改革を求めることが、運動維持の活力源となる。

8)地域と世界を結びつける:人々は地域特有の課題、策略、目標を持っている。しかし同時にわたしたちは連帯、コミュニケーション、そして展望をグローバルなレベルでも共有している。

9)深淵な民主主義と共同体の倫理と実践を提供する:粘り強い意志決定は、すべての声に耳を傾けた時に、見識と公の公約に変わる。占拠地は、誰もが怒り、希望、そして夢を、相互に支え合う雰囲気のなかで論じることのできるコミュニティーである。

10)わたしたちは力を取り戻した:政治家や指導者が変化をもたらすことを期待するかわりに、今やわたしたちは自分たちに力があることがわかる。わたしたちの生活を抑圧する力の犠牲者になるかわりに、世界を作り変える主権を主張するのだ。

隠岐せんせいがおっしゃるとおり、原則の提示があってはじめて、討議を始めることができる。
運動の持続と社会の変革は、討議のための柔軟な方法論を最初に掲げることができるかにかかっている。
オキュパイ運動は、その点においては、ごく最初に奇跡的な進展をみた社会運動だと思う。

朝食、まありと。
大根餅、ほうれん草のチャンプルー、きゅうりのぬか漬け。
大根餅は上新粉と大根、桜えびで。たれはポン酢とごま油、炒り胡麻。

電車で長崎へ。
車中と長崎駅のスタバで4枚書き上げ、速攻で脱稿。

昼食、ひとりで。
長崎駅からぽつぽつ雨が降るなか、「かたおか」へ向かう。
皿うどん。おいしい。
ちょっと味が濃いので、お酢をかけて食べると、なお美味しくなる

Hせんせいの研究室へ。
昨日のOせんせいと同じく、いつも思うのはこのひとたちはみな総じて「物語」を否定しないということだ。
学というのは、ディシプリンを支える(あるいは「ディシプリン」(訓練・教練・統制)が支える)客観性と
研究者それぞれ固有の物語が衝突する場、その衝突のなかでしか衡平は生まれないのではないか。
イデオロギーをむやみに恐れて、透明にしてはいけない。
そう考える。

帰りの車中でICレコーダを聞きながらレジュメ作成。
帰宅は21時。

今日はまありが食事を作ってくれていた。
肉じゃが、レタスサラダ、キャベツと油揚げのお味噌汁、きゅうりのぬか漬け。
ビールは、サッポロ黒生。

お風呂に入って、twitterしながら深夜レジュメ作成の続き。
もうひとつ原稿を書くつもりだったけど、明日にまわすことにした。
疲れた。

就寝、1時半予定。

I miss my Watson. (24th Apr. 2012)

/ /

起床5時半。晴れのち曇り。
コーヒーを飲んで、すぐにトド撃ち。

朝食、まありと。
オイルサーディンのオープンサンド、筍のピクルス、コーヒー 。
筍のピクルスは自家製でカレー味。

サンドイッチを作るついでにもずくとミニトマトのピクルスを仕込む。
和風に、昆布と米酢など。

「アンシダン」の整理を午前中に終えてほっとする。
これで、スタートライン。
まず先行して書いていこうと決めていた部分のラフスケッチをはじめる。

リヴィングにまありが本を置きっぱなしにして学校へ行っていた。
わたしが貸した本だ杉井光せんせいの『神様のメモ帳』。

事務所の玄関の前で、アリスは振り向いて、僕のフロックコートの胸に手を押しつけた。
「ワトスン」
「・・・え? あ、僕?」
「ジョン・H・ワトスンは、医者で、作家だった。知っているね」
「知ってるけど」
「一方、シャーロック・ホームズは探偵だった。探偵以外の何者でもなかった」
いったいなんの話だろう。こんな場所でする話だろうか。
「ホームズはその生涯で二度だけ、自分で小説を書こうと試みたことがある。そうして彼はこう嘆いている。"I miss my Watson."――ワトスンがいないとつらい、彼が質問したり、驚いたりしてくれないと、うまく自分の考えを語ることができない、とね」
僕は息をついた。アリスは僕の胸から手を離し、ドアに背中をもたれた。
「探偵というのは、世界に対して、読者でしかいられないものなんだ。この世界の複雑さを受け入れ、その通りに読み取り、より分け、咀嚼し、帰納するしかない。でも」
アリスは目を上げる。
「作家は、ちがう。ぼくはある作家の執筆方法に関するコラムを読んだことがある。彼はこう書いていた。ラストシーンから、時間の流れとは逆に小説を書くことだってできる――むしろそれが物語の作り方としては正しい、と。わかるかい、作家は世界を演繹できるんだ」

昼食、ひとりで。
トーストとホットミルク。
トーストはコリアンダー風味の自家製リンゴジャムで。

すぐにOせんせいの研究室へ出かける。
途中、いつもは通らない道を通り抜けてバス停に向かっていると、道端にあやめが咲いているのが見えた。
雑草やらなにやら、よく咲いている。
山頭火三首。

何が何やらみんな咲いている

あるけばきんぽうげすわればきんぼうげ

今日の道のたんぽぽ咲いた

お土産に道明寺桜餅と草餅。

おらが世やそこらの草も餅になる  一茶

草餅の黄粉落せし胸のへん  虚子

薄き葉の中に朱味や桜餅  子規

目の前の浮世がたのし桜餅  岩木躑躅

90分ほどの予定が2時間以上話し込む。

夕食、まありと。
焼き鯖のトマトともずくのピクルスかけ、焼きししとうと白ネギのオイル煮(山椒入り)、
春菊と大根のサラダ(黒酢、太白胡麻油、塩)、春菊のスープ、大根のぬか漬け、ごはん。
ビールはハートランド。

鯖は七輪で焼いた。香ばしくなって美味しい。ソースは五山中
せっかくなのでお湯をやかんで沸かして焼酎。
愛媛の「宮の舞」という栗焼酎をお湯割りで。甘くて飲みやすい。
肴は干し餅、焼き筍、大根のぬか漬け。
ぬか漬けがどんどん美味しくなるのが嬉しい。

お酒を飲みながらレモンタルトを焼く。
いい加減、レモンを使わないともったいないことになるだろうから。

深夜、Oせんせいとのやりとりをレジュメに。
顔本で討議。白熱。

就寝、3時半。

fekete rigó 03

/ 2012年4月24日火曜日 /

わたしはこの家を早く出ようとずっと前から決めていた。だから、片道2時間以上かかる私立の進学校を受験しようと思っていたのだ。
往復だと5時間弱。これほどの時間を通学にかけるくらいなら寮に入りなさい。そんな自然な流れを期待していたし、実際そのとおりになった。
この進路希望を父母に伝えたのは中2のとき。父母は、わたしがこんな意外な進路を選んだ理由を、なんとなく理解していたかもしれないし、あるいはぜんぜん気づかなかったかもしれない。いまだに訊ねていないから、わからない。わたしはただ家を出たかった。

わたしと妹の母は、違う女性。
実母はわたしが物心つかない頃にはもう家にいなかった。祖父母がわたしを育ててくれた。祖母は子どものわたしに実母のことをずいぶん悪く言いきかせながら育てた。どうして母がいなくなったのか、その理由をさんざん刷り込まれたけれど、いまだにそれが真実かどうか知らない。わたしはとくに実母を恨んではいないけれど、会いたいとは思わない。実母の存在はいまだに希薄そのものだ。

祖母はこの悪口以外はとりたてて邪気のない保護者で、むしろ優しい人だった。祖母に育てられているあいだ、困った目にあった記憶はない。
わたしは祖母の作るお煮しめが大好きだった。里芋、にんじん、ごぼう、昆布、厚揚げ、干し椎茸、ときどきかぼちゃが入った。だしは煮干しでとっていた。いまのわたしがときどき作るお煮しめのだしは、祖母にならって煮干しでとるようにしている。でも、あの味にはどうしてもならない。不思議だ。
そして、お麩のお味噌汁。これも煮干しだし。

祖父母の家には池があり、鯉が泳いでいた。
すももの木があり、グミの木もあった。夏みかんや山椒の木、今の時期は紫蘭が池のそばに咲き誇った。田舎にある、ごくのどかな家で、わたしは普通に子どもらしく育った。

父が継母と再婚したのは小学校4年生の時。わたしは祖父母の家を出て、地方都市の小さな貸家に三人で暮らすことになった。
わたしにとって継母は単に同居人だった。べつに継母が意地悪だったわけじゃない。わたしには「母親」というものがよくわからなかっただけ。継母はほんとうに優しかった。お菓子を焼くのが上手で、70年代や80年代のおしゃれなポップスのレコードをたくさん持っていた。土曜日か日曜日のどちらかは、かならずお菓子を焼いてくれる。居間のステレオで音楽を流しながら、ガスオーブンでケーキを焼いたりパイを焼いたりしてくれた。継母の音楽の趣味にはかなわないし、お菓子の味もかなわない。わたしのガスオーブン好きは、きっと継母の影響なんだと思う。その頃は休日が楽しみでしかたなかった。

継母を「お母さん」と呼ぶようになったのは、妹がお腹のなかに宿ったときだったと思う。
このあいだ、妹ができたことを告げられて大喜びする子どもを撮影した動画がネットに転がっていた。見ながらこのときのことを少し思い出してわたしは涙ぐんでしまった。
あの日の父は、スタカンの「Speak Like a Child」をコンポにかけて、お手製のカレーを作ってくれたんだ。

わたしは愛されて生きてきた。だけど、この家を出なくてはと思いこんでいた。
わたしは「実母」という、この家にとってはひどく異質なひとの血を継いでて、どこかはみ出してると思っていた。
裏を返せば思春期特有の夢みがちな心理だ。貴種流離譚の主人公に自身をなぞらえて考えてたのかもしれない。ほんとうに愚かしい。でも笑ったりはできない。あの頃のわたしはそれなりに必死だった。家族を守りたいと真剣に思っていた。本を読み、継母から借りたレコードを聴きながら、いつどうやってこの家を出ようかと考えていた。そして、高校進学はその良い機会であるように思えた。

でも、あの日。中3の冬の日。
世界は前触れなくすっかり変わってしまった。いや、徴しはあったのかもしれない。でも、わたしには知らされていなかった。嵐がひととおり吹きすぎた後、わたしは思った。これは決められていたことだ。最初からわたしの「居場所」はなかった。消されていた。それに気がついていなかっただけ。わたしがバカだっただけ。

あっという間にリアリティを失い、すかすかな手触りと化した世界のなかに取り残されるということ。どこに行こうと、どこに住もうと、一人であろうと、誰かといようと、わたしはずっとひとりであり続ける。誰とも触れ合えず、何も知ることがない。遠いところからひとり指をくわえて物欲しそうにそっちを眺めているのがわたし。わたしの話を誰も理解できない。憐れんだ顔でただ頷いてくれるだけ。わたしの身体があの冬の日、一瞬ですり替わったなんて、誰が信じてくれるだろう。わたしは自分のことを「ロボット」のようにしか感じないんですって、誰が理解できるだろう。


いま、あのときの気持ちを考える。
あの喪失、放擲の感覚は、きっと母に捨てられたときの子の気持ちだ。


それなのに、わたしは高校を合格した。
特例ということで、わたしは保健室で受験することになった。わたしはつい2か月前に母校の保健室で大暴れをしていた。でも、そんなこと思い出しもしなかった。
保健の先生がつきっきりでわたしを監督した。合格祈願の字の入った鉛筆を継母が削ってくれていたけど、鉛筆を握る感触なんてなかった。力の加減がわからずに、いきなり2度芯を折った。ほとんどなにも考えず、どんな問題かもわからず、ただ機械のように答えを出し、出来の悪い産業ロボットのように殴り書いて、そして合格した。
ほんとうにどうでもよかった。合格したからといって嬉しくもなく悲しくもない。ただ次のところへ移動することが決まっただけのこと。

入学式。わたしは欠席した。そのときも保健室にいた。
しかし集合写真だけは撮ることにしていた。父と継母のために。
わたしの隣にいた女の子のひじが、わたしの脇腹にずっとあたっていて、撮影中はそれが気持ち悪くて仕方がなかった。写真を中庭で撮影した後、わたしはすぐにトイレに走り込んで吐いた。その日は朝からなにも食べてなくて、直前に飲んだ紅茶が便器に落ちた。
どこにいたって同じなことはわかっているけど、これほどの拷問を何年も、もしかすると何十年も受け続けなくてはならないことに、わたしはぞっとした。だけど、単にぞっとしただけだった。

単にぞっとしただけだった。

God Knows (23rd Apr. 2012)

/ /

起床5時。晴れのち曇り。

起きてすぐに仕事2枚、脱稿。
ちょいちょい散歩。小手鞠が咲いてる。
パン屋さんでホテル食パンを半斤だけ買う。

小でまりや裏戸より訪ふことに馴れ  高濱年尾

朝食、まありと。
カニとアボカドのサンドイッチ、きゅうりのピクルスとチーズのホットサンド、アッサム。

「アンシダン」ファイルを(ほぼ)無作為に抜き出す作業。
えんえん、過去に書いた断片を読み続ける。
カウントすると、5289のファイルがあった。
我ながらすごい量だな。

昼食、ひとりで。
イチゴとホイップクリームのサンドイッチ、ダージリン。
ついでにリンゴとカルダモンのジャム、グレープフルーツとバナナのジャムを作る。

とりあえずファイルを500ばかり抜粋し、使えるもの200にしぼり、
それを分類したり加筆したりして今日は終了。苦行のようだった。
まだ手直しするけれども。なにせ文体がばらばら状態だ。
疲労困憊のまま、いくらかトド撃ち。

夕食、まありと。
筍とじゃがいもと砂肝のにんにくバター炒め、にんじんの白和え、
厚揚げ入りのカレーうどん、大根のぬか漬け。
ビールはハートランド。

白和えはクルミと塩麹を入れた。
コクが出て美味しい。カレーうどんは市販のルーで。

きゅうりの自家製ピクルスをポリポリしながらレモンハートのトニック割り。
音楽、読書、Twitter。
ドヴォルザークの「弦楽セレナーデ」をクーべリック指揮イギリス室内管弦楽団で。
小川三郎『コールドスリープ』など。

  名乗りそびれたものたちのこと

ベンチに雪が積もります。
その雪をベッドにしようというのですから、
やはり子供たちの木は知れないものです。
川べりにあるベンチですから、
風がびゅうびゅうと吹きつけます。

そんなベンチに彼らは並んで寝転がり、
透き通った雲に覆われた空を見上げ、
何がおかしいのか、
笑ってばかりいます。
そんな姿を見ていると、
もとより私たちに理由などなかったのだなあ、
という気になります。
風が吹いてきただけで、彼らは笑うのです。
それがいくら厳しくても、
そこに悪意さえなければ、
彼らは笑っていられるのです。

わたしは一人の子供の手を取って、
自分の手のひらと合わせてみました。
するとその大きさは、私とちっとも変わりませんでした。
それどころか、
私の手をすっと握りこんで、
絶対的な力で私を閉ざしてしまいました。
一体そんなことをして、
これからどうしようというのでしょう。
私がいなければ実際彼らは、
ここから家へ帰ることもできないというのに。
他の子供たちはそれを見て、
弾けるように笑っています。
男の子も女の子も、
川面に風が小波を起こすように。

私がどんどん小さくなってしまいます。
それは眠りとも違い、
やがては消えてしまう予感すらします。
しかし子供たちに本気で抗議するなど、
大人気ないではありませんか。
私は雪の積もったベンチの隅で、
どんどん小さくなって閉じることを考えます。
するとしかしなぜだか、
心に小さなランプが灯ったような、
そんな気がするのです。
深い深い、
絶望的に終わらぬ夜に灯った、
暖かいランプのような。

閉じていきながら地面に芽をやると、
割れた雪の合間に小さな、
春の芽が顔を出しています。
つるつるの茎、つるつるの肌、
子供たちはそれを見ても笑うのです。
まるで全ての色は、自分たちが決めているというかのように。
しかし考えてみれば、
今年の雪は去年の雪とは少し色が違うようですし、
川が渦を巻く音もまた、
聞き慣れたものとは別のようです。

子供たちも私も、空や川や雪だって、
所詮は見て楽しむために作られたものであって、
海のように子孫を残すことはできません。
悪意はないにせよ、存在すなわち破壊であるという意味においては、
みんな同罪なのです。
ただ子供たちは子供たちらしく、暗にこの家を飛び出して、
外へ行こうとしているのでしょう。
その分だけ、子供たちは罪が重い。
子供たちが、笑い続けるものだから、降りしきる雪はもう、
桜と見分けがつきません。
そのようにして子供たちは、
冬と春の境目に爪を立て、
そこからぺりぺりと剥がしてみたり、
秒読みを始めたりするのです。
子供たちに理由など必要ない。
だから私の心には、小さなランプが灯っています。
しかし大人の義務として、今日が完全に閉じてしまわないうちに、
彼等にこの雪の上に、足跡をつけさせなくてはならない。

空は歪んで、とうとう大きくバランスを崩し、
子供たちの肌に直接触れるべく手を伸ばしはじめました。
雲一面にひまわりとりんどうが咲き乱れ、
風は濁流となって世界を押し流していきます。
私は必至で春の芽の色にしがみつき、
自分の罪の重さを恥じて、なのに彼らは寝転がったまま、
雪に埋もれて笑ってばかり、
いつまでもいつまでも、
起き上がろうとしない。
ええ、
子供たちにしてみれば、
まだ午前中なのです。

ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』をちびちび読む。
就寝、3時予定。

Bourbon Pecan Pie (22nd Apr. 2012)

/ 2012年4月23日月曜日 /

起床7時。午前中、少し雨が残る。午後から晴れ。
朝からお風呂やトイレの掃除など。

朝食。もずく雑炊、にんじんのぬか漬け。
昆布多めのかつおだし。

午前中、昨日の原稿の推敲。脱稿。
あれこれトドを撃つ。

昼食、まありと。
親子丼、椎茸と卵の白身のお吸い物、かぶと筍のぬか漬け。
親子丼は1人分につき卵黄を1個余分に入れると味が濃くなっておいしい。
そのぶん塩分控えめでよくなる。

ピーカンナッツとコーンシロップを購入したので、はじめてバーボン・ピーカンパイにトライ。
テキサスのお菓子。
はじめて作るのだが、手持ちのレシピはあまりにバーボンの量が多いような気がする。
ネットで調べてみると、それで正しいらしい。
フィリングがしゃばしゃばになりそうなんだけど、と不安になりながら作る。
パイ生地を寝かせたりする時間が必要だったりするので、結局出来上がりは夕方。
そのあいだ午後中はひたすら読書。

夕食、まありと。
スペアリブの豆鼓煮、ソラマメとたけのこの黒酢炒め、きのこの塩麹和え、
たたききゅうりの紹興酒漬け、ごはん。
ビールはスーパードライ。

塩麹和えは生シイタケ、舞茸、しめじ。
ごま油を加えてみた。よく合う。新発見だった。

食事後もずっと読書。
ステファニー・ダリーの『バビロニア都市民の生活』など。

紀元前19世紀、北メソポタミアのマリを統治していたヤスマハ・アッドゥのある日の献立は
以下のようなものだった。
(ちなみにヤスマハ・アッドゥはワイン好きで食道楽な王だったことは知られている)

クム・パン900リットル、サンミダートゥム小麦でつくったパン60リットル、ブッルム穀で作った「酸味」のあるエムスム・パン2020リットル、ケーキ950リットル、大麦で作った「酸味」のあるエムスム・パン2185リットル、アラッパーヌム酒940リットル、ヒヨコマメ100リットル、イスククム小麦11リットル、サスクム挽割小麦6リットル、サンミダートゥム小麦3リットル、(亜麻仁)油70リットル、蜂蜜(またはナツメヤシ・シロップ)3リットル、亜麻仁4リットル、ナツメヤシ5リットル――以上キスキスム月第4日、マリ王とその付き人の食事。

もちろんこの「リットル」という単位は便宜上の表記で、
実際にはどのくらいの量を示しているのかはよくわからないまでも、
この後の王の食事の記録に比べても桁違いな量の食事だったということはわかっている。
ここで酒として「アラッパーヌム酒」の名が挙がっているけれども、
これはビールにザクロの香りをつけた甘いカクテルのような酒であったらしい。
まことに洗練されている。

深夜、星見をする。
今日はこと座流星群。しかし極大は15時だった。そのせいか少ない。
1時間半ほど外にいて、見えたのは5つだった。

行灯をとぼさず春を惜しみけり  几董

外でバーボン・ピーカンパイを少し温めて食べる。
激甘なんだけどバーボンの香りの残っていて結構大人な味。
レシピの、あの大量のバーボンは意味があったってことか。
七輪でお湯を沸かして、I.W.ハーパーを割って飲む。

今夜は、ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ』をお供にベッドにはいろうと思う。
就寝、3時予定。

Hello World (21st Apr. 2012)

/ 2012年4月22日日曜日 /

6時起床。曇りのち雨。
妙な夢。戦争の夢だった。

朝起きて、掃除をし、キッチンを磨きながらパンを作る。
山を越えたし、なんとなく気分もよかったから。

朝食、まありと。
焼きたてのシナモンロール、焼きトマトのマリネ、キウイのヨーグルトサラダ、コーヒー。

朝食を終えて仕事。
Kさんところの原稿4枚を失念していた(といっても来週金曜日が締切なのだが)ので、
さっさと終わらせ、昼から読書をしようと計画していたのだが、
まありが矢部の黒木の大藤を見たいというので出かけることにする。
雨も降りそうだし、正直あまり乗り気でもなかったのだけれど、
来週以降はおそらく部屋から出れないとも思ったから。
とはいえ、原稿をさくさく終わらせるように努力。

昼前には家を出ることができた。
とりあえず、電話でおさえることができたIBでランチ。

プリモ:赤ワイン風味のベーコンとクレソンのサラダ、たけのこのリゾット(木の芽)、リコッタと菜の花のパッケリ・オーブン焼き
セコンド:佐賀牛ロースのエギュイエット、佐賀牛もも肉の低温グリエ
コントルノ:ホワイトアスパラガスと生雲丹のサラダ
ドルチェ:ストロベリースフレ、バニラアイスクリーム

のこのこと出かける。
車の中では、初音ミクを聴いたりエグザイルを聴いたり。
昼ごはんは食べたのに、朝焼いたシナモンロールをmgmgしながら運転する。

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

僕はいつでも スレ立てする
串をさしかえ 自演の日々

スレを開けば 全レスする
ボカロスレには 書き込まない

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

まとめサイトの 赤い太字
世界で僕が 生きた証

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

誰かがうpした ZIP の
パスが解けなくって 泣きたくて
このまま落ちる そんな時
次のスレを開く喜び
抱きしめて

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

(Hello Hello, My World Lalala・・・)
(Hello Hello, My World Yeah・・・)

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
新スレキタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!
キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!

黒木の大藤に着くころには、雨。
コンビニで傘を買い、境内で鑑賞する。
まだ三分咲きほどか、お客さんも少ない。
正岡子規は、藤の花は曇り空が似つかわしいと書いていた。
いわんや雨の日をや。

藤の花長うして雨ふらんとす  子規

この句ほど、花房も伸びきっていてはいなかったが。
帰りにソフトクリームを食べて元気を出して帰る。
帰宅17時半頃。

夕食、まありと。
タットリタン、鯵のラー油漬け、トマトともずくの酢の物。
ビールはアサヒスーパードライ。

タットリタンは骨つき鶏もも肉、じゃがいも、にんじん、たけのこなどを入れた韓国の辛い煮込み料理。
コチュジャンは使わない。
その分のコクやうまみを出すために、必ず骨つきの鶏もも肉を使う。
粗挽き唐辛子と細挽き唐辛子を混ぜて使うのもポイント。
韓国産の唐辛子を使うと香りがいい。
〆にじゃがいもを練り込んだ韓国のインスタントラーメンを投入する。
この麺だと、もちもちしていて煮込んでもなかなか伸びない。

鯵のラー油漬けは、韓国風のカルパッチョのような感じ。
エゴマの葉があればよかったんだけれど、今日は大葉。

夜、タンカレーをトニックで割りながらひたすらぐびる。
読書、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』第10巻など。
伏見せんせいが吹っ切られたようでたいへんうれしい。

「こんな日は、難しい諸々はなにもかも忘れて、部屋でエロゲとかするといいよ。トラックボール買って、モニターアーム使って、ベッドに寝転びながらエロゲ。仰向けでね。頭は低反発枕に乗せるといい。そうやってリラックスした体勢で、かわいい妹たちと戯れてると、悩んでたことがバカらしくなって、人生って素晴らしいって思えてくる。幸福の直中で、冴えたアイデアだって浮かぶ。もし浮かばなくても、そうやって過ごした時間は人生の宝物さ」
こいつは頭がおかしいが、とてもいいやつだ。

本垢で集中的に討議したり、メールを買いたり。
結局、まともに本を読む時間がなかった。
寝るまでのお供は、昨日と同様、ステファニー・ダリー『バビロニア都市民の生活』。

就寝は2時予定。

Meditations on Afrocentrism (20th Apr. 2012)

/ 2012年4月21日土曜日 /

6時起床。また妙な夢で目が覚める。
曇り、ときどき弱い雨が降る。

まありが朝早くに出かけて行ったので、朝食は抜き。
顔を洗って、もくもくと推敲作業。
ときどき昨日焼いたオールバターショートブレッドをかじりながら。

どうも推敲ってのは、やってもやってもきりがないような気がしてくる。

昼食、ひとりで。
パンプディング(チーズがっつり)、きゅうりのピクルス、コーヒー。
ピクルスは昨日仕込んだもの。もう少し待った方がおいしいかな。

午後もただ黙々と推敲作業。

夕食、まありと。
和牛ホルモンのピッツァ、エビと白いんげん入りの豆乳グラタン、
春菊と生ハムのサラダ、ミニトマトのピクルス。
ビールはハイネケン。

ホルモンは下処理して冷凍していたもの。
ピッツァ生地は既製品、ホルモン+ゴルゴンゾーラ+パルミジャーノ、ホルモンがっつり。
豆乳グラタンのほうはチーズなし、自家製パン粉。
このピクルスも自家製。こちらは漬かり具合は上々。
明日にはワインとも合いそうかな。

23時半、最後の推敲を終える。
脱稿。

お酒を飲みながら、イアン・ジェフリー『写真の読み方』をようやく読了。
おそるべき翻訳のダメさ。
同じ業界にいてこういう訳を読んでしまうと、怒りと悲しみに我を忘れてしまう。

写真はあなたを不死にすることができる。あるいは少なくともあなたを現存させ続けることができる。例えばブラーボは、床屋と客を見て、客が選ぶ向きでその男が貧しく思慮深い性格であることを理解した。ここではある知覚が提示されているのだが、その考えがブラーボに起こった瞬間、あなたもその眼差しを共有することができるだろう。もう一枚のイメージの凸凹のリズムと、流体と影の楽しい配列も同様である。アルバレス=ブラーボが見たとき、あなたにもそのシーンが一瞬にして現れ、またそれを同じように認知するだろう。このように写真が機能するためには抑制がなくてはならない。細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。

「あなた」ってなんだよ(笑
「細部があまりにも多すぎると、あなたには自然主義しか残されていない。」ってどういう意味なんだ?(笑
なんで読者をここで厭味ったらしく説教しちゃうの?(笑
創元社が悪いだろ、こんなもん出版したらあかん。

レモンハート・デメララ151をぐびぐび。
むさぼるように本を読んだ。
ステファニー・ダリーの『バビロニア都市民の生活』を読みながら今日を終える。

就寝、2時半予定。

solla mikanagui a.k.a.delineators

基本的にいい加減。
しかも、ふだんは我慢してるけど、根がオタク。
仕事がらみの真面目のことは本垢にまかせて、
せめて副垢では本性を出すことにしたい。

座右の銘は「Quid sit futurum cras, fuge quaerere!」
ホラティウスせんせいの格言で、要するに「なるようになるさ」ってこと。
音楽と本が主食。
でも、料理を作るのも好き。お酒が大好き。
そんで、妹が好き。

まあ、そんな感じ。
 
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